2026/6/5
〇国際交流基金が主催する、米国の政治哲学者パトリック・デニーン氏の講演を聞きに行った。デニーン氏は、J・D・バンス副大統領のブレーンやヘグセス国防長官の先生として知られており、トランプ政権に近い保守派の学者のように思われている。私がデニーン氏のことを話した何人かの(リベラリズムに染まった)メディア関係者も、否定的な評価をする人が結構多かった。
でも、昨日の講演でのトランプ大統領やヘグセス国防長官への評価は結構辛辣で、もっと深い文明論的観点から政治思想を語っている。トランプ政権に対しては、「民主党・共和党の二大政党のどちらに投票しても変わらない。非リベラリズムの選択肢がない。だから、レジームを破壊するトランプ大統領の方がまだ希望が持てると選択された」と冷めた評価をしていた。
私は衆院選敗戦後、デニーン氏の代表的著書『リベラリズムはなぜ失敗したのか(Why Liberalism Failed)』を熟読していたので、来日の機会に是非とも直接話を聞いてみたかった。
デニーンは、リベラリズムは個人が束縛を受けずに自らの欲望を満たすために自立した選択をするという個人主義に基盤を置いているとし、その実現のために家族や宗教や共同体の規範からの解放を求め、「消費者」として際限なく利益を増大していくグローバルな経済システムに身を投じ、自然を征服しようとしてインターネットやAIなどの科学技術を進展させ、リベラルアーツ(教養)を軽視して実学ばかりが学ばれ、特定の土地や環境で何世代にもわたって醸成されてきた文化を解体してきたと言う。
リベラリズムを実現するために役割を拡張してきたのが国家で、リアルな人間関係の中で培われた共同体の規範を弱める代わりに、立憲主義の名の下で法の支配を強めてきた。しかし、その国家を形作る政府は、国民が選挙で自ら動かせるもののようには実感されず、「政治は観戦スポーツも同然になって、受動的な民衆の気晴らしとして市場に出されて見栄えよく陳列されている」と言う。グローバルな経済システムは国家の枠すら飛び越えて際限なく格差を広げ、人間に利便を与えるはずだった科学技術に私たち自身がその虜となって変えられてしまい、振り返ってみれば共同体の規範や文化によって紡がれてきた共通善(common good)や公の概念がなくなってしまっていた。
デニーンはそうしたリベラリズムを、一般的に言う保守・革新の枠組みでは捉えない。なぜなら、「保守派も革新派も足並みをそろえてリベリズムを進めてきた」からだ。「「リベラル」にとっても「保守」にとっても国家は個人主義の主要な推進役となり、その一方で個人主義は国家の権力と権威を拡大するための主要な源となっているのだ」と言う。最近の日本の政治で言えば、安倍政権や高市政権はリベラリズムの極致ということになろう。
しかし、デニーンは「リベラリズムは失敗した。リベラリズムを実現できなかったからではなく、リベラリズムに忠実だったからである。成功したために失敗した」という。その理由は、リベラリズムは、①人間の本性についての誤った考えに基づいていること、②リベラリズム・イデオロギーと人間の実体験のギャップが広がって体制が正当性を失うことにあるという。トランプ現象は、まさにそれだと言うのだ。先の衆院選の結果も、それを示しているのかもしれない。
デニーン氏は講演で、米国は形の上では自由民主主義国でリベラルだが、氏の子ども時代の故郷コネチカット州の田舎街では、アイルランド系のカトリックの伝統的共同体がまだ生きていたという。講演のために日本に来て、訪問した真鶴町の小学校で給食の配膳のために整然と並ぶ子どもたちの姿などを見て、「第二次大戦の敗戦を経て日本の民主化が成功したと言われているが、完全にリベラル化しているわけではない。日本には元々実質的で伝統的な共同体が息づいている。自分の故郷に戻ってきたように思える」と話していた。
今世界で起きている様々な現象は、個人主義に立脚した西欧近代が生み出してきた文明の行き詰まりの姿なのであろう。デニーンは、それを「リベラリズムの失敗」と言っている。明治維新によって外発的に西欧近代を受け容れた日本には、もしかしたらその西欧近代の衣をはぎ取ったところに、日本的な共同体や公の精神に基づく西欧近代を乗り越えうる何かがあるかもしれない。
現実の日本の政治では、相変わらず米国追従の無価値な議論ばかりが行われているが、浪人の私は足らない頭と教養ではあるが、文明論的な中に次の新しい政治理念を生み出せるよう呻吟してみたい。そうした意味で、デニーン氏の講演は大変大きな刺激になり、一晩明けても知的興奮の余韻に浸っている。




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