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【本庄市】児玉飛行場の歴史を未来へ|代表質問で訴える郷土教育の必要性

2026/6/12

私が暮らす土地の、知られざる歴史

6月18日、私は本庄市議会の代表質問で、「郷土への愛着と志を育む教育」をテーマに、児玉飛行場の歴史を取り上げます。

「なぜ今、議会でその話を?」と思われる方もいるかもしれません。この記事では、私がこのテーマを代表質問として取り上げる理由と、その背景にある思いをお伝えしたいと思います。

 

私が毎日暮らす土地の歴史

本庄市児玉町共栄。整然と区画された道が続く、どこにでもある静かな住宅地。しかしこの土地には、「共栄」という地名が生まれるまでの、波乱に満ちた歴史があります。

「児玉飛行場」という名前を、初めて聞く方も多いと思います。かつてこの地には、旧陸軍の飛行場がありました。地元では、その広さから「八丁八反(はっちょうはったん)」と呼ばれていたそうです。戦時中に建設され、戦争末期には特攻隊の訓練基地としても使われました。そして終戦後、この飛行場跡地に多くの開拓者が入植し、「児玉西瓜」の産地を生み出しました。

つまりこの土地には、戦争の記憶と、戦後の再生の記憶が、両方刻まれているのです。

■飛行場の建設

飛行場の建設には、近隣住民だけでなく小学生までもが動員されました。昭和18年(1943年)頃、資材も労働力も不足する中、子どもたちは神流川から重い石を背負い、建設現場まで何度も運び続けました。砂利と赤土で固めてローラーで押し固める「マカダム式」と呼ばれる工法で、滑走路は急ピッチで造られました。

碑文には「各種団体から小学校児童に至るまで」「困苦欠乏に耐えつつ工事に奉仕」と刻まれています。今、私が毎日歩くこの道の下には、当時の子どもたちが汗水流して運んだ石が今も眠っています。地域に生きるすべての人が、自分にできることを差し出した。その事実に、私は深い敬意を抱かずにはいられません。

■特攻隊の記憶

やがて戦局が悪化し、この飛行場は特攻隊の訓練基地となりました。昭和20年3月、第四教育飛行隊がこの地に移駐し、沖縄特攻作戦のために南下していきました。滋賀県の八日市などから集められた若者たちが、ここで離着陸や編隊飛行の訓練を重ね、やがて知覧や太刀洗へと飛び立ちました。二度と帰ってくることなく。

児玉飛行場跡記念碑には「屍を越え訓練は日夜を分かたず続けられた」と刻まれています。そして碑はこう締めくくっています。「再び戦争を繰り返さないことを願いつつ、世界の平和と日本の繁栄を祈念してこの碑を建立する」と。これは、碑を建てた当事者の方々自身の言葉です。

戦争の是非や思想信条を超えて、時代に翻弄された若い命の記憶に、私たちは誠実に向き合う義務があると思っています。彼らが何を思い、何のために命を使おうとしたのか。その問いに、簡単な答えはありません。しかし問い続けることそのものに、意味があると私は感じています。

実は、この児玉飛行場は、映画の世界でも取り上げられています。終戦の日のクーデターを描いた映画史に残る名作『日本のいちばん長い日』には、終戦の8月15日に児玉飛行場から特攻機が出撃する場面が描かれており、強く印象に残るシーンとして知られています。映画と史実の異同については研究者の間でも議論があるそうですが、それだけ児玉飛行場という場所が、昭和史の重要な一場面として記憶されてきたことの証だと感じています。

■戦後開拓の物語

戦争が終わると、今度は復員兵や引揚者、近隣の次男・三男たち、百十余名の開拓団員がこの荒れた飛行場跡に入植しました。目の前に広がっていたのは、分厚いコンクリートの滑走路が横たわる不毛の荒野。しかも、もともとこの土地は水はけが良すぎて、稲作には向かない土壌でした。

彼らはツルハシでそのコンクリートを砕き、クワ一本で土を耕し始めました。そして、稲作に向かないという条件を嘆くのではなく、逆手に取りました。接木栽培という新技術を導入し、試行錯誤を重ねた末に「児玉西瓜」を産地へと育て上げたのです。

「出身は違っても、共に助け合い、共に栄えよう」という願いが、「共栄」という地名の由来です。「拓魂開拓三十周年記念之碑」に刻まれた「拓魂」の二文字は、その苦闘と誇りを今に伝えています。一度はすべてを失った場所で、それでも生き抜くことを選んだ人々がいた。その選択の重みを、私たちは決して軽く見てはならないと思います。

後に昭和32年(1957年)の行政区画の変更で、同じ開拓団として汗を流した仲間たちの土地が「本庄市」と「児玉町」に分断されるという皮肉な出来事もありました。それでも共栄の人々は行政の壁を越えてつながりを守り続け、平成18年(2006年)の合併によって、約50年ぶりに同じ「本庄市」の下で統合されました。現在の住所表記が「共栄」と「児玉町共栄」に分かれているのは、そうした歴史の名残なのです。

戦時の建設、特攻の記憶、戦後の開拓。この三つの歴史が重なる土地に、私は今日も暮らしています。そしてその一つひとつに、先人たちがその時代の中で精一杯生きた証が刻まれています。

 

記憶が消えていく、静かな危機

この歴史を実際に生きた方々が、今、90代を迎えています。

少し前まで、近所の年配の方から「あの頃はな……」と聞かされることがありました。それがどれほど貴重な言葉だったか、若い頃の私には分かりませんでした。大人になるにつれ、先人が生きた時代の重さが、少しずつ胸に迫るようになりました。議員となった今、その思いはさらに強くなっています。

証言者が減るだけではありません。当時の写真、手書きの記録、開拓時代の文書。こうした資料も、持ち主が亡くなるたびに静かに失われています。記録されなかった記憶は、やがて誰にも伝えられなくなります。それは単なる「情報の喪失」ではありません。この土地で懸命に生きた人間の営みそのものが、消えていくということです。先人たちがどのような思いでこの土地と向き合ったのか、その記憶を受け取る最後の機会が、今なのかもしれません。

「いつか誰かがまとめるだろう」という感覚が、私たちの世代にはどこかあったように思います。しかし気づいたときには、語れる人がいなくなっていた、という事態が全国各地で起きています。児玉飛行場の歴史も、例外ではありません。今やらなければ、本当に間に合わなくなる。その焦りにも似た感覚が、今回の質問を準備する原動力になっています。

 

一冊の本が教えてくれたこと

こうした思いを胸に、代表質問で児玉飛行場の歴史を取り上げると決めてから、地域の方々に少しずつお話しするようにしました。すると先日、共栄にお住まいの方に声をかけていただきました。

「実は、父がその頃のことを本に書いているんです。よければ読んでみてください。」

差し出してくださったのは、その方のお父様が出版された一冊の本でした。当時の児玉飛行場の様子や、その後の開拓の歩みが、生きた言葉で綴られていました。こうした記録が、この地域の中にまだ残っていたのです。

ページをめくり、あとがきに差しかかったところで、私は手を止めました。そこにはこう書かれていました。


私は一度は死んだと思っている。日本人が敗戦を迎え、私は復員できるとは思わなかった。ところが、こうして生きながらえているということは、何か見えない糸に引かれているとしか考えられない。戦後は余禄の人生だと思っている。

この方は、復員後に開拓農民となり、コンクリートの滑走路が残るこの荒野で農業に従事し、後に教職に就かれました。「一度は死んだ」と思っていた人生を、開拓と教育という形で次の世代に差し出した。その重みのある言葉を前に、私はしばらく動けませんでした。

こういう記録が、今どれだけの家の本棚に眠っているだろうか。そう思うと同時に、こうして協力してくださる方がいることを、心強く感じています。議会で問いを立てることは、一人でできることではありません。先人の記憶を受け継いでこられた地域の方々の協力があってこそ、歴史は次へとつながっていきます。今回お借りした本の内容も、今後の議会活動の中で大切に活かしていきたいと思います。

 

なぜ本庄市が、この歴史を引き継ぐべきなのか

隣接する上里町では、町立郷土資料館がアメリカ公文書を活用した研究紀要を刊行し、終戦80年の特別企画展も開催しています。飛行場跡の主要な碑が上里町嘉美に所在しているという事情もあり、歴史の保存と継承においては上里町が先行しているのが現状です。

一方、飛行場の建設現場であり、戦後開拓の中心地でもあったのは、本庄市の共栄地区です。この地区には今も「児玉工業団地完成記念碑」が建立されています。飛行場から開拓地へ、西瓜の産地から工業団地へという地域の歩みが刻まれたこの碑が示すように、本庄市こそこの歴史の当事者自治体です。

それなのに、市として史実を調査・記録する取り組みはまだ始まっていません。この歴史を受け継ぐべき自治体としての責任を、今こそ果たすべきだと考えています。だからこそ、今議会で問うのです。

 

子どもたちに伝えたいのは、「生き方」の物語

日本財団の「18歳意識調査」(2024年4月)によれば、「自国の将来が良くなる」と答えた若者はわずか15.3%で、対象国中最下位です。また「自分自身に満足している」と答えた日本の若者も、他国と比べて突出して低い水準にあります。自分の可能性を信じられない若者が、これほど多い国になってしまいました。

この数字に、私は複雑な思いを抱きます。

先人たちは、私たちよりもはるかに過酷な状況に置かれていました。それでも彼らは嘆くのではなく、歩き出すことを選びました。コンクリートの荒野を農地に変え、行政の壁に分断されても人と人のつながりを守り続けた。その生き方は、どんな教科書にも載っていない、本物の「生きる力」の物語です。

先人の歩みを知ることは、単に郷土の歴史を学ぶことではありません。「逆境の中で、何のために、どう生きるか」という問いへの、最もリアルな答えが、この土地には刻まれているのです。子どもたちがその物語を自分のこととして受け取ったとき、郷土への誇りは自然と育まれると思っています。

本庄市のブランドメッセージは「どこにでも行けるけど、ここにいたい。本庄」です。しかしその言葉を本物にするのは、プロモーションではなく、子どもたちが幼い頃から積み重ねてきた「この土地で生きることへの誇り」ではないでしょうか。郷土への愛着は、ふるさとに留まる力にも、ふるさとから一度離れてもいつか戻りたいと思う気持ちにも、つながっていくものだと信じています。

志を、議場で問う

先日、バスケットボール指導者の原田毅さんと久しぶりにお会いし、教育やリーダーシップについて深い対話の時間をいただきました。「何をするか」以上に「どう在るか」が大切だという原田さんの言葉は、スポーツだけでなく、教育にも政治にも通じる本質だと感じました。

話はやがて、知覧の歴史や「命の使い方」という問いにも及びました。そして自然と、児玉飛行場の話へとつながっていきました。知覧から飛び立った若者たちも訓練を行ったこの地で、戦後の先人たちが荒野を耕し「共に栄えよう」と誓った。今ある地域の暮らしは、その積み重ねの上にあるのだということを、改めて実感した時間でした。

本庄市が誇る偉人、塙保己一先生が体現した「世のため、後のため」という精神も、同じ問いに向き合っています。目の前の成果だけでなく、次の世代に何を残すか。それを問い続けることが、今を生きる者の責任ではないでしょうか。

この土地に暮らす者として、私にはこの歴史を「知っている」だけで終わらせる選択肢がありません。先人たちが命をかけて、あるいは人生をかけて私たちに残してくれたものを、次の世代へつなぐ。それは、今を生きる私たちに託された責任だと思っています。

6月18日の代表質問では、史実の調査・記録への着手、郷土教育への活用、次期総合振興計画への位置づけについて、一つひとつ市の考えを公の場で問います。すぐに大きな成果が出るわけではないかもしれません。それでも、本庄市議会という公の場に記録として残すことに、大きな意味があると考えています。

開拓者たちがコンクリートを砕いて土を耕したように、今を生きる私たちにも、次の世代のために耕すべきものがあります。地道であっても、着実に。その覚悟を、議場という場で示してまいります。

皆さまからお預かりした声を胸に、全力で臨みます。

6月18日(木)午前9時30分、本庄市役所議会棟2階。トップバッターで登壇します。

傍聴、またはインターネット中継でぜひご覧ください。

▼インターネット中継はこちら
本庄市議会 議会中継

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著者

出牛 じゅんいち

出牛 じゅんいち

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肩書 本庄つむぎの会 代表 IT関連企業 勤務
党派・会派 無所属
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