2026/4/28
市川市議会で可決された加藤圭一氏への問責決議が、司法の場で問われることになりました。
報道によれば、加藤圭一市議は、SNS投稿などを差別的と断定され、市川市議会で問責決議案が可決されたことについて、表現の自由の侵害や名誉毀損に当たるとして、市と決議案を提出した市議3人に対し、損害賠償を求める訴えを起こしたとされています。
日本保守党のニュースでも取り上げられていました。
私は、この提訴は当然の行動だと思います。
なぜなら、この問題は単なる一人の市議の発言問題ではないからです。
市川市議会が、議員の政治的な問題提起に対して、どこまで「差別」という言葉を使って封じることができるのか。
そして、地方議会が問責決議という形で、議員の議会外の政治活動やSNS発信にまで、公的な烙印を押してよいのか。
この線引きが問われているからです。
市川市議会の発議第35号は、加藤圭一議員による「度重なる排外的・差別的言動」に対し、猛省を促すとともに、特定の宗教、国籍または民族を理由とする差別的言動を行わないよう求める決議です。提出者はとくたけ純平議員、賛成者は野口じゅん議員、丸金ゆきこ議員とされています。
決議文を読むと、主に問題視されているのは、2026年1月と2月に加藤氏が街頭で訴えた内容をSNSで発信したことです。つまり、この問責決議の中心は、本会議場での発言そのものではなく、議会外の街頭活動とSNS発信にあります。
ここが極めて重要です。
議会内の秩序を守るために、議場での発言を問題視することと、議会外での政治活動やSNS発信に対して、議会多数派が「差別」と断定し、問責決議を出すことは、まったく意味が違います。
後者は、地方議員の政治活動の自由に直接関わります。
そして、地方議員の政治活動の自由は、その議員個人だけのものではありません。
その議員に投票した市民の声を、議会や行政に届ける自由でもあります。
もちろん、特定の国籍、民族、宗教の人々を侮辱し、排斥し、地域社会から追い出すことを煽るような言動であれば、それは厳しく批判されるべきです。
その場合、議会として問題視する余地もあるでしょう。
しかし、ここで絶対に混同してはならないことがあります。
それは、差別的言動と、行政政策への問題提起は違うということです。
公園という公共空間をどのように使うべきか。
宗教的行為が公共空間でどこまで許容されるべきか。
外国人支援に市の予算をどこまで使うべきか。
日本語が分からない外国籍の子どもへの支援に、学校現場や教育予算をどこまで投入すべきか。
その前に、日本人の子ども、生活に困っている市民、高齢者、障がい者、子育て世帯への支援は十分なのか。
これらは、地方議員が当然に問うべき行政課題です。
市の予算は無限ではありません。
職員の数も、学校現場の余力も、福祉の財源も限られています。
だからこそ、行政は常に優先順位を決めなければなりません。
その優先順位を問うことまで「差別」と決めつけるなら、地方議会は市民の不安や疑問を吸い上げる場ではなく、特定の思想に合わない意見を封じる場になってしまいます。
ここで必要なのは、感情論ではありません。
憲法判例の基本です。
外国人にも人権はあります。
これは当然です。
しかし、外国人と日本国民が、行政上あらゆる場面で完全に同一に扱われなければならない、という意味ではありません。
まず、マクリーン事件最高裁判決です。
最高裁は、外国人にも基本的人権の保障は及ぶとしながらも、それは権利の性質上、日本国民のみを対象とするものを除くと判断しました。また、外国人の在留については、国家の広い裁量を認めています。
次に、定住外国人地方選挙権訴訟です。
最高裁は、憲法15条1項の参政権は日本国民を対象とするものであり、外国人には憲法上保障されていないと判断しています。また、憲法93条2項の地方公共団体の「住民」についても、地方選挙権の場面では日本国民を意味すると整理されています。
ただし、ここで正確に理解すべきことがあります。
外国人の地方参政権は、憲法上当然に保障された権利ではありません。
しかし、永住者など地域社会と特段に緊密な関係を持つ外国人に対して、法律により地方選挙権を付与することまで、憲法上禁止されているわけではありません。
もっとも、それを認めるかどうかは国の立法政策の問題であり、現行法上、外国人には地方選挙権は認められていません。
つまり、正確には、
憲法上保障されていない。
法律で付与することは禁止されていない。
しかし現行法上は認められていない。
という整理になります。
さらに、生活保護についても重要な判例と通知があります。
最高裁平成26年7月18日判決は、外国人は生活保護法に基づく保護の対象ではなく、同法上の受給権を有しないと判断しています。これは、「外国人への生活保護的支援がすべて違法」という意味ではなく、生活保護法上の権利としては保障されていない、という判断です。
一方で、昭和29年5月8日の厚生省社会局長通知は、外国人は生活保護法の適用対象ではないとしつつ、当分の間、生活に困窮する外国人に対しては、一般国民に対する生活保護の決定実施の取扱いに準じて、必要と認める保護を行うとしています。
そして、この通知は、外国人に対する保護について、法律上の権利として保障したものではなく、一方的な行政措置として行っているものだと整理しています。
つまり、外国人の生活保護についても、正確には、
生活保護法上の受給権はない。
ただし、通知に基づく行政措置として、生活保護に準じた支援が行われている。
その範囲や運用は、法律上当然の権利というより、行政政策として議論されるべき領域が大きい。
ということです。
ここが核心です。
外国人にも人権はある。
しかし、参政権、社会保障、行政給付、在留、予算配分の場面で、日本国民と外国人が完全に同じ扱いを受けることが、憲法上当然に要求されているわけではない。
この区別は、憲法と行政法の基本です。
にもかかわらず、外国人支援のあり方や行政予算の優先順位を問う発言まで、安易に「排外的」「差別的」と断じるのであれば、それは憲法判例や行政実務の基本的理解を欠いた、極めて粗い議会判断に見えてしまいます。
繰り返します。
外国人を侮辱することと、外国人政策の予算配分を問うことは違います。
外国人を排斥することと、日本人市民を優先する行政を求めることは違います。
特定の宗教を信じる人の人格を否定することと、公共空間での宗教的行為のあり方を議論することは違います。
この線引きを失ったとき、議会は政策を議論する場所ではなくなります。
そして、気に入らない発言に「差別」のラベルを貼り、多数決で問責決議を出す場所になってしまいます。
これは非常に危険です。
市川市政で考えれば、この問題はさらに具体的です。
私はこれまで、市川児童相談所による一時保護や施設入所の問題について、何度も発信してきました。
親と会えない。
学校に行けない。
友達とも切り離される。
自分の意見を十分に聞かれないまま、行政判断によって生活を大きく変えられる。
そのような不利益を受けている子どもたちが、現に市川市周辺にもいます。
もちろん、外国籍の子どもにも支援が必要な場面はあります。
日本語が分からず困っている子どもを、地域社会が無視してよいとは思いません。
しかし、市の予算、職員、相談体制、教育現場の余力には限界があります。
その中で、まず優先されるべきは誰なのか。
私は、少なくとも市川市政においては、外国人支援を拡大する前に、まず市川児童相談所によって不利益を受けている子どもたちへの救済体制を整えるべきだと考えます。
行政が子どもを保護するという名目で、親子関係、学校生活、地域とのつながりを断ち切ることがあります。
その結果、子どもが精神的に追い詰められても、行政は十分な検証も謝罪も救済もしない。
このような問題を放置したまま、「外国人支援をもっと手厚く」とだけ言うのであれば、市民が疑問を持つのは当然です。
日本人の子どもたち、特に行政によって不利益を受けている子どもたちへの救済を後回しにしてよいのか。
これは差別ではありません。
行政責任の優先順位の問題です。
税金は無限ではありません。
職員も無限ではありません。
支援の手も無限ではありません。
だからこそ、地方議員は「誰を、どの順番で、どの予算で支えるのか」を問わなければなりません。
外国人支援の是非を語ることは、外国人の人格を否定することではありません。
日本人の子どもたちを優先すべきだと主張することは、排外主義ではありません。
ましてや、行政によって不利益を受けている子どもたちを先に救えと訴えることは、市政における当然の問題提起です。
市川市議会が本当に「子どもの権利」や「人権」を語るのであれば、外国人政策への問題提起を問責する前に、市川児童相談所によって不利益を受けている子どもたちをどう救うのかを議論すべきです。
地方議会の多数決は、何でもできる魔法の杖ではありません。
多数派が気に入らない少数派の発言に対して、問責決議という形で公的な非難を加えれば、当然、萎縮効果が生まれます。
次に外国人政策を語る議員は、発言をためらうでしょう。
次に行政予算の優先順位を問う議員は、言葉を丸めるでしょう。
次に市民の不安を代弁しようとする議員は、「また差別と言われるのではないか」と黙るでしょう。
その沈黙で損をするのは、議員ではありません。
市民です。
もちろん、加藤圭一氏の発言に反論する自由はあります。
不適切だと思うなら、堂々と政策論で反論すればよいのです。
外国人支援が必要だというなら、なぜ必要なのか、どの程度の予算が妥当なのか、日本人市民への支援とのバランスをどう取るのか、市民に説明すればよいのです。
それをせずに、問責決議という形で一方的に「差別」と断じるのは、議会の議論としてあまりにも雑です。
しかも今回の問題は、議会外の政治活動やSNS発信が主な対象です。
これはさらに重い。
議員は、議場の中だけで仕事をしているわけではありません。
街頭で市民の声を聞く。
SNSで問題提起をする。
市民の不安を行政課題として言語化する。
それも地方議員の重要な政治活動です。
その議会外活動にまで、市議会が多数決で「差別」という公的烙印を押すのであれば、それは地方議員の政治活動を大きく萎縮させます。
地方議会の懲罰をめぐっては、令和2年11月25日の最高裁大法廷判決も重要です。この判決は、地方議会議員に対する出席停止の懲罰の適否について、司法審査の対象になると判断しました。議会の内部問題であっても、住民代表である議員の活動に関わる場合、議会の多数決だけで何でも許されるわけではないことを示した判例です。
今回の問責決議は、出席停止処分ではありません。
しかし、議会多数派が一人の議員の政治的発言に対して、公的に「排外的・差別的」と断定する以上、その萎縮効果は軽視できません。
今回、加藤圭一氏が提訴したことで、問われるのは加藤氏だけではありません。
むしろ、市川市議会の側が問われます。
何を根拠に「差別」と判断したのか。
どこまでを政策論と見たのか。
どこからを排斥の扇動と見たのか。
議会外の政治活動に対して、市議会がどこまで公的非難を加えることができると考えているのか。
その線引きが、司法の場で問われることになります。
市民も、この問題をよく見るべきです。
誰の発言が好きか嫌いかではありません。
外国人支援に賛成か反対かだけの話でもありません。
問題は、市民の税金の使い方や行政の優先順位を問う言論が、議会多数派によって封じられてよいのかということです。
外国人問題を語ることは、差別ではありません。
行政予算の配分を問うことは、排外主義ではありません。
日本人市民をまず守る行政を求めることは、憲法違反ではありません。
私が発信している市川児童相談所によって不利益を受けている子どもたちの救済を先に議論すべきだと訴えることも、当然の市政課題です。
差別は許されません。
しかし、差別という言葉を使って、政策論を封じることも許されません。
市川市議会に必要なのは、問責決議の乱用ではありません。
必要なのは、憲法判例、行政法、地方自治の基本を踏まえた政策論です。
議会は、思想審査の場ではありません。
市民の不安、疑問、怒り、現場感覚を持ち込み、政策として鍛える場です。
その火を消すのではなく、議論の炉に入れて、市政を強くする。
それが本来の地方議会の役割ではないでしょうか。
今回の問責決議問題を考えるうえで重要な、憲法21条、マクリーン事件、朝日訴訟、外国人地方参政権訴訟、地方議会議員出席停止事件について、法律を学ぶ人向けに整理しました。
法的論点を詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。
https://note.com/takasan_japan/n/ned421e037edf?sub_rt=share_sb
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