2026/9/6
第2章では、明治政府が、戊辰戦争だけではなく、嘉永6年(1853年)以来の国事殉難者まで遡って調べていたことがわかりました。
その結果、後に靖國神社へ祀られることになった方々の中には、私たちがよく知る幕末の志士たちもいました。
例えば、
吉田松陰
橋本左内
坂本龍馬
高杉晋作
久坂玄瑞
中岡慎太郎
「明治維新のさきがけとなって斃れた」幕末の志士として御祭神の中に明記されています。
ここで、一人一人の人生を見ていくと、意外なことが分かってきます。
処刑された方。
暗殺された方。
病で亡くなった方。
戦いの中で自刃した方。
最期のかたちは、まったく違います。

松下村塾(山口県萩市)
出典:著者自身
吉田松陰は、長州藩出身の思想家・教育者です。
嘉永6年(1853年)、黒船来航を聞くと浦賀へ向かい、翌年には下田に停泊していたアメリカ軍艦へ乗り込み、海外へ渡ろうとしました。
日本の外に、いったいどのような世界が広がっているのか。
自分の目で確かめようとしたのです。
しかし密航は失敗。
その後、萩の実家で幽閉される中、若者たちへの教育を始めます。
(およそ1年間と言われています。)
それが、松下村塾でした。
そこから高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋など、後の日本を動かす人物が育っていきます。
ところが松陰自身は、明治維新を見ることができませんでした。
安政6年(1859年)。
安政の大獄によって江戸・伝馬町牢屋敷で処刑されます。
そして約30年後。
松陰は、幕末の国事殉難者の一人として靖國神社に祀られることになります。
自分自身は新しい時代を見ることができなかった。
しかし、
松陰が育てた人々が、その後の時代を動かしていった。
そう考えると、歴史とは不思議なものです。
松陰と同じ安政の大獄で命を落とした人物に
橋本左内
がいます。
越前福井藩の俊才です。
左内は15歳のとき、自らの生き方について五つの心得を記した『啓発録』を書きました。
「稚心を去る」
「気を振るう」
「志を立てる」
「学に勉む」
「交友を選ぶ」
まだ15歳の少年が、「自分はどのような人間として生きるのか」をこれほど真剣に考えていたのです。
その後、緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、藩主・松平春嶽にもその才能を認められ、幕政改革や将軍継嗣問題にも関わっていきます。
しかし、安政の大獄によって捕らえられ、安政6年10月7日。
江戸・伝馬町牢屋敷で処刑されました。
数え26歳。
そして、その20日後。
同じ伝馬町牢屋敷で処刑されたのが、吉田松陰でした。
ここに、非常に印象的な話があります。
二人は同じ牢屋敷にいながら、一度も直接会うことができませんでした。
左内は東側の牢。
松陰は西側の牢。
そのため、顔を合わせることはありませんでした。
しかし松陰は、左内と同じ牢にいた勝野保三郎から、左内がどのような人物だったのかを聞きます。
左内は幽閉されている間にも『資治通鑑』を読み、注釈を加え、獄中でも教育や人材育成について論じていたといいます。
その話を聞いた松陰は、自らの死を目前にして書いた『留魂録』に、「ますます左内と半面なきを嘆ず」と記しました。
「半面」とは、一度顔を合わせること。
つまり、「左内と一度でも直接会って話せなかったことが、残念でならない」という意味です。
さらに、左内が獄中で語っていた内容を聞いた松陰は、「獄の論、大いに吾が意を得たり」と記します。
分かりやすく言えば、「左内の考えは、まさに自分の考えと一致する」という感嘆です。
そして最後には、「ますます左内を起して一議を発せんことを思ふ」とまで書き残しています。
現代の言葉で言えば、「できることなら左内をもう一度ここに呼び戻して、じっくり議論してみたい」というほどの思いでしょう。
同じ時代に生まれ、
同じ国の行く末を考え、
同じ安政の大獄によって命を落とした二人。
それなのに、一度も直接語り合うことはできませんでした。
もし、吉田松陰と橋本左内が向かい合って、これからの日本について語り合うことができていたなら、二人は、どのような話をしたのでしょうか。
イギリスの歴史学者E・H・カーの「歴史にifはない」という言葉がありますが、歴史上の人物だった二人が、と想像する事で、少し身近に感じられてきます。

左:吉田松陰 右:橋本左内 「同じ伝馬町牢屋敷にいながら、一度も直接会うことのできなかった二人」
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
吉田松陰の松下村塾で学んだ人物の一人が、高杉晋作です。
高杉は長州藩で奇兵隊を組織しました。
武士だけではなく、志を持つ者を身分にとらわれず集めた部隊です。
幕末の長州を語るうえで欠かすことのできない人物でした。
ところが、これほど戦いに深く関わった高杉の最期は、戦死ではありません。
病でした。
肺結核を患いながら戦い続け、慶応3年(1867年)、新しい時代を見ることなく下関で亡くなりました。
まだ20代でした。
戦場を駆け巡った人物が、最後には病床で明治維新を目前にして亡くなる。
そして、その名も後に靖國神社へ祀られました。
松下村塾には、高杉晋作と並んで才能を認められた人物がいました。
久坂玄瑞です。
松陰は玄瑞の才能を高く評価し、自分の妹・文を嫁がせました。
萩市の資料でも、久坂は高杉晋作とともに松下村塾の中心人物として位置づけられています。
しかし、元治元年(1864年)。
京都で禁門の変が起こります。
久坂はそこで幕府側諸軍と戦い、負傷した後、自刃しました。
25歳でした。
松陰は30歳。
左内は数え26歳。
久坂は25歳。
改めて年齢を見ると、幕末を動かしていた方々の若さに驚かされます。
そして、最もよく知られた幕末の志士の一人が、坂本龍馬です。
土佐藩を脱藩した後、薩摩と長州の間を取り持ち、薩長同盟の成立に関わります。
さらに海援隊を率い、大政奉還へ向かう政治の流れにも深く関わりました。
しかし、慶応3年11月15日。
京都・近江屋。
龍馬は、もう一人の土佐出身の志士と話をしていました。
中岡慎太郎です。
そこへ刺客が踏み込みます。
龍馬は深い傷を負い、命を落としました。
その日は旧暦では龍馬の誕生日でもありました。
明治維新まで、あとわずかでした。
中岡慎太郎もまた、幕末を語るうえで欠かすことのできない人物です。
土佐を脱藩し、討幕運動に奔走。
薩摩と長州の連携を進め、薩長同盟成立に力を尽くしました。
龍馬が海援隊を組織したのに対し、中岡は、陸援隊を組織します。
そして慶応3年。
京都・近江屋で、龍馬とともに襲撃されました。
龍馬はその夜に亡くなり、中岡は重傷を負った後に亡くなります。
海援隊の龍馬。
陸援隊の中岡。
それぞれ違う方法で国の行く末を考えていた二人が、最後には同じ場所で命を落としたのです。
吉田松陰――処刑。
橋本左内――処刑。
坂本龍馬――暗殺。
高杉晋作――病死。
久坂玄瑞――禁門の変で負傷し、自刃。
中岡慎太郎――近江屋で襲撃され、その傷によって死亡。
最期は、実にさまざまです。
それでも、この六人は靖國神社に祀られています。
では、何が共通していたのでしょうか。
ここで、第2章で見てきた、「嘉永癸丑以来殉難死節ノ者」という考え方につながります。
嘉永癸丑。
つまり、黒船が来航した嘉永6年(1853年)以来、国事に関わり、その中で命を落としたと位置づけられた方々です。
靖國神社を、「戦争で亡くなった軍人だけを祀る神社」と理解すると、その歴史の一部分しか見えません。
その原点をたどれば、幕末という激動の時代の中で、「この国をどうするのか」という問いに向き合い、行動した方々の名を後世に留める、という歴史も見えてきます。靖國神社自身も、御祭神の事績を永く後世へ伝えることを創建の趣旨として説明しています。
そして、ここで大きな疑問が生まれます。
吉田松陰
橋本左内
坂本龍馬
高杉晋作
久坂玄瑞
中岡慎太郎
これほど多くの幕末の志士が靖國神社に祀られているのであれば、明治維新を語るうえで欠かすことのできない、あの人物も、当然祀られているように思えます。
西郷隆盛です。
ところが――
西郷隆盛は、靖國神社に合祀されていません。
なぜなのでしょうか。
それが、次回・第4章 「なぜ西郷隆盛は靖國に祀られていないのか」
一人ひとりの人生を、歴史と共に歩いて見たいと思います。
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ホーム>政党・政治家>加地 まさなお (カジ マサナオ)>第3章 激動の時代を駆け抜けた志士たち――その名が靖國に祀られるまで