2026/8/10
| 小森さだゆき |高槻市議会議員
「1ドル160円を超えるなんて、さすがに円安になりすぎではないか」。そう感じる方は多いと思います。
私自身、最近の為替について調べている中で興味深いレポートを読みました。
2026年7月29日に、みずほ総合研究所が公表した「160円台が『円安すぎ』ではない理由 ~『期待インフレ上昇』という新たな構造変化~」というレポートです。
このレポートでは、現在の経済環境を統計的に分析すると、ドル円の推計値は1ドル=162円程度になるとしています。
つまり、「160円だから、それだけで異常な円安だ」とは必ずしも言えない、という分析です。
ただし、これは「162円が日本にとって望ましい為替水準」という意味ではありません。
重要なのは、日本経済が長年のデフレからインフレのある経済へ移行する中で、円相場を決める構造そのものが変わっている可能性があるという点です。
レポート執筆時点では、ドル円は1ドル=163円台後半まで円安が進んでいました。
円安の理由としては、これまで様々な説明がされています。
米国の金利上昇、原油価格の上昇、日本の貿易収支、企業の海外投資、そして日本の財政に対する市場の不安などです。
ところが、これらは同時に起きています。
そのため、「結局どの要因がどれくらい円安に影響しているのか」を感覚だけで判断するのは簡単ではありません。
そこで今回のレポートでは、機械学習の一種である「LASSO回帰」という統計手法を使って分析しています。
LASSO回帰は、多くの候補の中から、データを説明するうえで有用な変数を自動的に絞り込む手法です。
今回、候補となったのは次の6つでした。
| 候補となった要因 | 分析で選択 |
|---|---|
| 米国2年金利 | 〇 |
| 日本2年金利 | × |
| 米国期待インフレ率 | × |
| 日本期待インフレ率 | 〇 |
| 財政懸念 | × |
| 実需による円需給 | 〇 |
最終的に選ばれたのは、「米国2年金利」「日本の期待インフレ率」「実需」の3つでした。
この3つから近年のドル円の動きを推計すると、実際の為替レートとの連動性が高く、足元の推計値が約162円になったということです。
今回のレポートで、特に注目したいのが「日本の期待インフレ率」です。
期待インフレ率とは、簡単に言えば「今後、物価がどの程度上昇すると市場が予想しているか」を示すものです。
投資家が資産を運用するときには、単純な名目金利だけではなく、物価上昇を差し引いた「実質金利」が重要になります。
例えば、名目金利が1%であっても、今後の物価上昇率が2%と予想されているのであれば、単純化すれば実質金利はマイナス1%程度となります。
つまり、日銀が金利を引き上げても、同時に日本の期待インフレ率が上昇すれば、円を保有する魅力が必ずしも大きく高まるとは限りません。
「日本の金利が上がれば円高になる」と単純には考えられなくなっている可能性があります。
日本では長い間、「物価も賃金もほとんど上がらない」というデフレ的な状態が続いてきました。
そのため、人々や企業の「今後も物価はあまり上がらないだろう」という予想も強く、期待インフレ率は低い状態が続いていました。
ところが近年は物価と賃金の上昇が続き、期待インフレ率も上昇しています。
みずほ総合研究所のレポートでは、足元の日本の期待インフレ率は約2%まで上昇しているとしています。
日本銀行も「物価安定の目標」を消費者物価の前年比上昇率2%としています。
つまり、日本経済が長年続いた「物価が上がらない世界」から「物価が一定程度上がる世界」へ移行しつつあることになります。
今回のレポートでは、構造的な円安について「デフレ脱却の副産物」という興味深い見方を示しています。
デフレ脱却というと、一般的には日本経済にとって良いことという印象があります。
賃金が上がり、物価が緩やかに上がり、企業が投資しやすくなることは経済の正常化とも言えます。
一方で、その過程で期待インフレ率が上昇すれば、為替市場では円安方向に作用する可能性があります。
つまり、現在の円安の一部は、単に「日本が弱くなったから」という説明だけではなく、デフレ経済からインフレのある経済へ移行したことによる構造変化として説明できる可能性があります。
円安の背景を考えるうえで、もう一つ重要なのが企業などによる実際のお金の流れです。
日本は経常黒字の国です。
それなら「海外からお金が入ってくるので円高になるのではないか」と思われるかもしれません。
しかし、現在の経常黒字の多くは、海外に持つ資産から受け取る利子や配当などの第一次所得収支です。
そこで得た利益が日本へ戻されず、そのまま海外で再投資される場合、ドルを売って円を買う取引は発生しません。
さらに、日本企業が海外に工場を建設したり、海外企業へ出資したりすれば、円を売って外貨を購入する需要が生じます。
みずほ総合研究所の試算では、こうした実際の為替取引を考慮した円需給は、2011年頃を境に円高要因から円安要因へ転じています。
「日本は経常黒字だから円高になる」という以前の常識だけでは、今の為替を説明しにくくなっているということです。
レポートでは、2022年以降の円安について、資源価格上昇による貿易収支の悪化、日本企業の海外進出、デジタル赤字の増加なども実需面から円安に寄与してきたと整理しています。
私たちが海外のITサービスやデジタルサービスを利用すれば、その代金の一部は海外企業へ支払われます。
また、日本企業が国内ではなく海外へ投資を続ければ、その際にも外貨需要が生まれます。
こうした一つ一つの動きが積み重なり、日本国内から海外へ資金が流れやすい構造になっています。
ここも今回のレポートで非常に興味深いところです。
最近の円安については、「積極財政に対する市場の不安が円安を引き起こしている」という説明もあります。
今回の分析では、日本の30年国債利回りと10年国債利回りの差などを使って「財政懸念」を表す変数を作り、分析しています。
しかし、LASSO回帰では、この財政懸念の変数はドル円を説明する主要な変数として選択されませんでした。
ただし、ここは慎重に読む必要があります。
この結果だけを見て、「財政政策は円相場に全く影響しない」と結論づけることはできません。
元レポート自身もこの点を明確に注意しています。
今回使われた財政懸念の指標が財政リスクだけを表しているとは限らず、積極財政による需要増加や、金融政策が物価上昇に遅れるという市場の懸念が、日本の期待インフレ率の上昇という別の変数に表れている可能性もあります。
したがって、今回分かるのは「設定された候補の中では、財政懸念を示す変数より、米国金利、日本の期待インフレ率、実需の3つの方がドル円の予測に有用だった」ということです。
もう一つ注意したいのが、1ドル=162円という数字の意味です。
この数字を見ると、「162円が円の適正価格なのか」と受け取ってしまうかもしれません。
しかし、そうではありません。
今回の162円は、選択された3つの変数と過去のドル円の関係から計算された「推計値」です。
LASSO回帰そのものについても、元レポートでは、選ばれた変数が経済理論上の因果関係を直接証明するものではないと注意しています。
「162円が正しい」「160円台の円安には問題がない」という分析ではなく、「現在のマクロ経済環境から見ると、160円台を統計的に説明することは可能」という意味で捉える必要があります。
為替がファンダメンタルズから説明できるかどうかと、その為替水準が国民生活にとって望ましいかどうかは別の問題です。
円安になれば、輸出企業や海外で収益を上げる企業にはプラスになる場合があります。
一方で、エネルギー、食料、原材料など海外から輸入する商品の価格は上昇しやすくなります。
海外旅行や海外留学などの負担も大きくなります。
したがって政策を考える際には、「円安か円高か」という数字だけを見るのではなく、賃金、物価、企業収益、輸入価格、家計負担などを総合的に見ることが重要だと考えます。
今回のみずほ総合研究所の分析で特に重要だと感じたのは、円相場を見る前提そのものが変わっている可能性です。
2010年代までの日本は、低インフレ・デフレを前提とした経済でした。
現在は、物価や賃金が上昇し、期待インフレ率も2%程度まで高まっています。
さらに、日本企業の海外進出や海外で得た利益の再投資、デジタルサービスへの支払いなどによって、実需面でも円が売られやすい構造になっています。
そのため、「昔は1ドル100円台だったのだから、160円は異常だ」という過去の数字だけを基準にした議論では、現在の為替を十分に説明できない可能性があります。
一方で、160円台が統計的に説明できることと、160円台が日本経済や私たちの暮らしにとって望ましいことは同じではありません。
為替について議論するときこそ、「円安だから悪い」「積極財政だから円安になった」「日銀が利上げすれば円高になる」といった一つの要因だけで判断するのではなく、金利、物価、期待インフレ率、実需、財政などを分けて考えていく必要があります。
みずほ総合研究所「160円台が『円安すぎ』ではない理由 ~『期待インフレ上昇』という新たな構造変化~」2026年7月29日、調査部 主任エコノミスト 東深澤武史
https://www.mizuhobank.co.jp/corporate/mhri/research/report/pdf/express-mk260729.pdf
日本銀行「2%の『物価安定の目標』」
https://www.boj.or.jp/mopo/outline/target.htm
※本記事は上記資料をもとに、為替をめぐる論点を分かりやすく整理したものです。為替相場の将来の水準を予測したり、特定の金融取引を推奨したりするものではありません。
| 小森さだゆき |高槻市議会議員
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