2026/8/10
| 小森さだゆき | 参政党 / 高槻市議会議員
幕末の傑物であり、今なお多くの日本人に愛される西郷隆盛。彼の「無私」の生き様や、天を敬い人を愛する「敬天愛人」の思想が、佐藤一斎の書き残した『言志四録』によって磨き上げられたものであることは広く知られています。
西郷は一斎の言葉の中から、自らの心に深く響いた101条を自ら抜き出し、手記として終生大切に持ち歩いていました。今回は、西郷がなぜその言葉を必要とし、どのように激動の時代を生き抜く支えにしたのか、その背景に迫ります。
西郷が『言志四録』から101条を書き写したのは、彼の人生において最も過酷な時期であった、奄美大島や沖永良部島(おきのえらぶじま)への遠島(島流し)の刑に処されていたときだと言われています。
特に1862年からの沖永良部島での生活は凄惨を極め、吹きさらしの劣悪な牢屋の中で、一時は命の危険に瀕するほどでした。政治の表舞台から完全に隔離され、いつ許されるかもわからない暗闇の淵に立たされた西郷は、この極限状態の中で一斎の言葉と深く対話しました。
薄暗い牢内で貪るように読み込み、己を律し、命を繋ぎ止めるための精神的支柱として書き留めたノート。それこそが、現在も残る『西郷南洲手抄言志録(さいごうなんしゅうしゅしょうげんしろく)』なのです。
佐藤一斎の『言志四録』は全部で1,133条にのぼる膨大なものですが、西郷はその中から約1割にあたる101条を厳選しました。その内訳を見ると、西郷が求めていた思想の傾向がはっきりと浮かび上がってきます。
| 元となる書物 | 西郷が選んだ条数 | 特徴 |
|---|---|---|
| 言志録(42歳〜) | 81条 | 選んだ言葉の約8割がここに集中。志を立てる強い言葉が多い。 |
| 言志後録(57歳〜) | 14条 | 実践的な処世や人間関係に関する教え。 |
| 言志晩録(67歳〜) | 6条 | 本質的な人間教育や修養の智慧。 |
| 言志耋録(78歳〜) | 0条 | 老境の境地からは1条も選ばず。 |
西郷が選んだ言葉の大部分は、一斎が40代の気鋭の時期に書いた最初の『言志録』に集中しています。当時30代半ばだった西郷自身が、逆境の中で「もう一度、大志を立て直して国のために尽くすのだ」という強い決意を滾らせていた証拠と言えるでしょう。
101条の中から、西郷の生き様そのものを表しているような代表的な言葉をいくつかご紹介します。
一国に在りては一国の事を憂ひ、天下に在りては天下の事を憂ふ。其の身の進退・得喪に在りては、一もこれを開(念)するに暇あらず
(一国にいるときはその国のことを心配し、天下にいるときは天下の行く末を憂う。自分自身の出世や失脚、得失などの私事については、これっぽっちも考えている暇などない)
人の境遇は、皆是れ深く苦しむ処。只だこれに処するの法を苦しむ
(人が置かれる境遇は、誰もが苦しいものである。しかし本当に苦しむべきは、その境遇そのものではなく、その逆境に自分がどう対処するか、という心の持ち方である)
暗室の中に、天窓一つを開く。其の光の照らす処、一毫も隠蔽することを得ず
(暗い部屋に一つだけ天窓を開けると、差し込む光が照らす場所は、どんな小さな埃さえも隠すことができない。天の目は、人間が誰も見ていないと思っている隠し事も、すべてお見通しである)
無事に藩へと復帰し、明治維新という大業を成し遂げて陸軍大将・参議という最高権力者の座に就いてからも、西郷はこの手記を片時も離さず持ち歩いていたと伝えられています。
戦場にあっても、政治の激務の最中にあっても、迷いや苦しみが生じるたびにこのノートを開いた西郷。一斎の言葉を復唱しては、「自分は私心に囚われていないか」「天に対して恥じない選択をしているか」と自らを厳しく省みていたのです。
最後の戦いとなった西南戦争で、故郷・鹿児島の城山で自刃した際も、彼の魂にはこの101条の教えが深く刻まれていたに違いありません。
私たちが困難に直面したとき、あるいはリーダーとして重要な決断を迫られたとき、西郷隆盛の心を支えたこれらの言葉は、時代を超えて強力な指針を与えてくれます。己を磨くための学びを、私も日々深めてまいりたいと思います。
| 小森さだゆき | 参政党 / 高槻市議会議員
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