2025/4/18
こんにちは。兵庫県川西市議会議員の長田たくや(ながたく)です。
先日、八尾市議の川上まい議員にお誘いいただき、歴史の勉強会に参加しました。
自分の復習も兼ねてまとめました。かなり複雑な状況であることは間違いないのですが、ざっくりと理解していきたいと思います。
テーマ:満州事変
講師:山中浩一 先生(護国神社研究家)
■ 満州事変とは
日本の陸軍が、中国を攻撃して満州国を強引に樹立した一連の事件。
国が宣戦布告をしたわけではないので、戦争ではなく”事変”となっています。国連脱退の要因にもなりました。清を作った民族を自分たちで”マンジュ”と呼んでおり、その民族の発生地が中国の北東部で、その地域を”満州”と言いました
■ 日本とのかかわり
清は弱い状況で列強諸国にいろんなものをタカられており、大国ロシアにも満州鉄道・旅順港・軍配備の土地を貸していました。日露戦争では日本が勝利したため、ポーツマス条約(1905年)によって、ロシアが持っていたそれらの利権をゲットします。
これには、”清”も了承しています。そこで満州鉄道を整備し、移民政策をして周辺地域を開発していきます。

万里の長城は関所としての役割をもち、それより内側を関内、外側を関外もしくは「関東(かんとう)」と言います。ここに進駐した軍を、”関東軍”と呼ぶのです。私、東京から行った軍だから関東軍だと思ってた(/ω\)
■ 事変に至るまで
清の中はボロボロになっており、三国志みたいに群雄割拠していたそうです。台頭していたのが、「孫文+蒋介石」と「袁世凱+張作霖」でした。孫文から見たら北に位置している北京あたりを取り戻したい願望がありました。よって、”北伐(ほくばつ)”を開始します。
日本は当然、満州に近い張作霖側を応援しています。

蒋介石(国民党)は北伐に邁進していましたが、上海で国民党左派と共産主義者によるクーデターが起こりました(上海クーデター:1927年)
孫文は共産主義者に対しても柔和な対応をしていましたが、これを機に蒋介石は共産主義絶対殺すマンになって排除・弾圧を強めます。
蒋介石は、1927年末に、毒ガス・生物兵器の生みの親ともされるドイツのM・バウアー大佐を軍事顧問とし、共産主義の弾圧や抗日活動に利用することになります。これを機に日本でも731部隊がつくられたとも(所説はあるみたい)。
■ 張作霖爆殺事件(奉天事件)
南:蒋介石(国民党)vs 北:張作霖(軍閥)という構図で南北に分かれていました。張作霖は日本の支援を受け、北京まで勢力を伸ばしていましたが、欧米の支援が蒋介石に移り、北伐も勢いづいて情勢が変わってきました。
当時の総理大臣:田中儀一は、張作霖をもう少し利用しようという方針で、一旦満州に連れ戻そうとしました。しかし、その道中で田中の方針に反対していた日本軍(関東軍)が張作霖を爆殺してしまいます。

張作霖の息子である張学良が後を引き継ぎましたが、すぐに蒋介石の元にくだってしまいます。その後、強烈な反日になってしまいます。これをもって蒋介石は北伐を完了し、国民党が勝利宣言をします。
■ 満州事変の火種と燃料
満州事変へとつながる火種と燃料が、だいたい1年前くらいから次々と投下されていきます。
①満州の権益・日本人保護
反日の鬼となっていた張学良は、満州鉄道への支線を敷くなどして、日本側の権益を削ってきました。また、朝鮮人への虐殺・暴行事件を起こし、日本人にもその被害が及んでいました。
②中国北西部の干ばつ
大量の難民(漢人)が満州に流入してきており、満州は、日本人・朝鮮人・中国人が共存している形となっていました。しかし、張学良のこともあって中国人へのマイナス感情が高まりつつありました。
③蒋介石の無関心
蒋介石は満州が荒れていることにも関心を示さず、とにかく共産主義者の弾圧を徹底してやりました。1930年頃より共産主義者の掃討作戦を実施して、それは第5次まで続きます。
④満州内の共産勢力
中国では激しい弾圧に合っていたため、満州内で共産主義者が勢いづいていました。
■ 満州事変となる
①中村大尉殺人事件
陸軍参謀の中村大尉は、農業技師と詐称して現地調査を行っていました。1931年6月に、張学良が率いる軍に捕まり殺され燃やされてしまいます。
②万宝山事件
中国人による朝鮮人への虐殺・暴行が横行し、それに対する報復で治安が悪化していました。在満日本人にも危険が及び、なんとかしてくれ~!と政府に要求しましたが、戦争を避けるためか具体的な対処がなされなかった。
③柳条湖事件
関東軍が自作自演で満州鉄道を爆破し、張学良を犯人に仕立てあげ、総攻撃の大義名分を作りました。
朝鮮駐屯軍司令官の林銑十郎は、天皇の命令(勅令)を待たずに満州進軍を命令します。軍部による独走と国民の熱狂的支持が大東亜戦争(太平洋戦争)と遠因になったとされています。

このように満州事変が起きたわけですが、当時の日本国民の支持は高く、政府も認めるほかなかったそうです。ハルビンが陥落し、満州国建国を宣言します。満・漢・蒙・朝・日の「五族協和」を謳いましたが、実際には日本の支配下にありました。東京からハルピン行きの鉄道切符があったくらいです。
その後、リットン調査団が国連より派遣され、一連の事件を調査しました。イギリス人のリットン卿は日本への一定の理解を示すものの、満州国は認めず中国に返すように迫りました。
1933年に調査団の報告に納得がいかないと、国連を脱退します(イギリスとの絶縁)。
■ 大東亜戦争の足音
昭和3年(1928年)からアメリカはこの情勢を観察しており、アメリカはこの時期を大東亜戦争(太平洋戦争)の始まりと認識していました。1933年1月にはヒトラーがドイツ首相に就任し、同年3月には共産主義を容認するような(ソ連との協調路線を取る)ルーズベルト政権が誕生します。日本の孤立と世界の変化がダイナミックに動いた時でもありました。
これをもって短絡的に日本が悪い!と考えるのか、国際社会は様々な意図や陰謀、食い違いがあり、簡単なものではなく、国民の熱狂が時に危うい選択になってしまうのだと考えるかです。歴史に学ぶとはこのようなことを言うのではないでしょうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
素敵な1日でありますように。
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