2026/7/15
先日、宝塚市の学童保育の利用料値上げの議案、そして子ども医療費の自己負担再開に関する議案について、私は反対の意思を表明しました。
いずれも可決されましたが、両者の言い分がそれぞれ理解できるものであることを十分に踏まえた上で反対を決めたので、その思いをお話しさせていただきます。
学童保育について
|値上げ提案そのものには筋がある
宝塚市の学童保育の利用料は、2012年度から長年にわたって据え置かれてきました。その間、値上げすべきではないかという意見が出たときも、市は据え置きを続けてきています。しかし物価が上昇し、人件費も上がる中で、現行の料金体系で制度を運用していくことが限界に近づいている——この提案理由自体には、提出側の筋があり、納得できる部分もあります。今、日本経済は物価上昇の局面にあります。この傾向が変わらない限り、いずれ値上げは避けられないでしょう。
では、なぜ現時点で賛成できないのか。それは、優先順位が間違っているからです。
|公設公営に偏り、民間の力を借りてこなかった
宝塚市の学童保育は、基本的に公営で行われてきました。公が運営することで、目の行き届いた学童保育を提供したい——その理念には捨て難い重みがありますし、私も敬意を持っています。
一方、日本各地には公設民営(施設は自治体が用意し、事業は民間業者が運営するという形)の学童保育が数多く存在します。民間が参入すると、提供内容に多様性が生まれます。私自身が視察した例では、英語教育に熱心なご家庭向けに、会話をすべて英語で行う学童保育もありました。カリキュラムに特色を持たせることができるのです。
もちろん、野放図に誰でも運営できるというわけではなく、要件を満たさなければ公設民営の学童事業には参入できません。だからこそ、公に設定した最小限の枠組みの中で、良い意味での競争が生まれるのです。市場の原理は、健全に機能するならば、公の目配せで全てを管理するよりも、サービスの質を高めていける有用な選択肢です。
私は、一定の安心感と、市場原理による質の向上を両取りする、「公設民営」の学童保育を推進する立場です。公設「公営」だから安心だ、という理屈にも一理はあります。しかし宝塚市の学童保育はむしろ、あまりに民間の力を借りてこなかったために、質を高めていく好循環に入れずにいたのではないでしょうか。
近年ようやく本市でも、学童に入れない子どもが増えている地域では民間の手も借りるべきではないか、という議論が少しずつ進んできた段階です。私は、学童保育が「公設公営」の形であることには、必ずしも拘らない立場です。
|コスト意識と競争がもたらすもの
一般論として、自治体よりも民間企業のほうが、コスト意識に長けています。それは公営企業と異なり、民間企業は生存競争に晒されているからです。手の早い合理化で減らせるコストを減らしながら、質を高めるべきところには重点的に投資する。どうすればより選んでもらえるかを考えて、資金を増やし、次の投資に繋げる。そうやって、納得できる価格でより良いサービスを提供し、常に成長しようと努力します。競い合った企業の中から、公設民営の権利を勝ち取った事業者に参入してもらえれば、単なる値下げ競争ではなく、価格に対する質という意味での競争が生まれるのです。
また、質を高めるだけでなく、経済的に厳しいご家庭のために価格を抑える努力をする事業者に参入してもらう道もあります。学童を利用するご家庭や、実際に施設に通う通う子どもたちにとって、選択肢が広がることは良いことのはずです。
そうして民間の知恵を借り、それでもなお。価格の上昇が避けられない。
——そこまで来たとき、初めて、値上げをすればいい。
値上げは、こうした政策面での努力を尽くしたあとで、最終手段として行われるべきだ。
私は値上げそのものに反対しているのではありません。本来あるべき努力が欠けていること、優先順位が間違っている政策姿勢に、反対しているのです。
|「公だから質が保たれてきた」と言い切れるか?
値上げを避ける努力だけでなく、質を高める努力も。この双方をしっかり行った上での結論だという経緯が見えていたなら、私は今回の議案に賛成していたと思います。確かに、質に見合った費用を受益者が払うのは当然のことです。維新に所属する議員として、それを否定するつもりはありません。しかし、民間の参入を極限まで制限してきた中で、その努力は行われてきませんでした。
では、これまで公でやってきたぶん質は保たれてきたのかというと、そうとも言い切れません。先日、宝塚市の学童保育で子どもが大怪我をする事故があり、他の議員も取り上げていました。拝聴すると、それは内部の対応や取り組みがずさんであったがために起きた事例でした。
サービスの存続に危機感を感じずに済む環境では、人はどうしても甘えが出ます。品質を高めよう、自分を律しよう、という気持ちは緩んでいくものです。もちろん意識の高い方が質を高めていくこともあるでしょう。けれども、競争があり危機感にさらされている状況と比べれば、それは生まれにくいと思います。
|民間で教育に携わる者として
私は民間で学習塾を経営しているため、なおさらそう感じます。良い教育を提供しなければお客様は来ない。そう思うからこそ、真剣にサービスの向上に努めます。価格も同じです。本当に優れたものを提供するから高い価格をいただくのか、コスト削減の努力によって安さで選んでもらうのか。サービスに見合った適正価格という意識を持たなければ、民間の教育サービスは潰れていきます。切磋琢磨の中で、民間の教育は向上してきました。
この観点を、宝塚市の学童保育にももう少し取り入れてほしいのです。
|反対に込めた思い
子どもたちが安心して通えるのは、大前提として。質の良いサービスを、納得できる価格で受けられる。通う人が、喜んで通いたくなる。値上げを検討するなら、そういう状況が担保されたあとでやるべきです。すべてを民営にしろと言っているのではありません。しかし、そうした風をもっと取り入れる必要がある。この思いから、今回の議案には反対しました。
いつまでも値上げに反対するということではありません。むしろ今回の反対票を、良い競争原理や質を向上させるための仕組みを導入していく、そのきっかけにしたいのです。そして、それが満たされてなお適正価格が今より上だという時期が来たなら、堂々と値上げの議案を出してほしい。そういう思いからの反対でした。
今回可決されたことについては思うところもありますが、これからもこうした提案を続け、宝塚市の学童保育の質を高めていく取り組みは、諦めずに行っていきたいと思います。
子ども医療費について
|提案の趣旨には理解できる部分がある
こちらも、提案の趣旨そのものには理解できる部分があります。私自身、前市長の頃から、宝塚市の財政がやがて立ち行かなくなるという強い危惧を持っていました。だからこそ、財政非常事態宣言を求める決議にも賛同しています。
森市長が就任された後、あらゆる項目について聖域を設けない行財政改革を行う姿勢で事業を見直してこられたことには、一定の評価をしていますし、敬意もあります。その見直しの中で、医療費の仕組みを持続可能なものにするために、最初の2回の通院については窓口負担を求めるという今回の結論に行き着かれたのだろうと推察しています。
しかし、これには賛同できません。
|行財政改革には賛同する。だが削る順番が違う
そもそも行財政改革は、それ自体を目的化してはいけません。効果の低い支出を削減し、財政を改善して、より効果の高い施策に少しでも財源を振り向ける。それによって住民福祉を向上させていく。——行財政改革は、投資を最適化するための、手段にすぎないはずです。
少子高齢化が進んでいる昨今。子ども医療費は、はたして「削減対象」でしょうか? むしろ他の項目で削減できた費用を、余力があれば振り向けていきたい——それくらいの、投資対象ではないでしょうか。若者は宝であり、未来の日本社会を支えていく存在です。安心して子育てができる社会にしていくことこそが、この社会を持続可能にするための、本来の「最適化」ではないでしょうか。
|スクラップとビルドのバランス
もちろん森市長の意図もわかります。今回の提案は、2回目までの窓口負担を広く求める代わりに、無償化の対象を高校生まで拡大するという内容を含むものでした。子育て世帯に対してマイナスな部分だけでなく、プラスな部分も含まれた改革の筋道であることは理解できます。
それでもやはり、順番が違うのではないか。
森市長は就任以来、国際バカロレア教育の導入計画、マンガ・アニメの聖地化計画、ニュータウン再生事業、シェアサイクルなど、新たな事業を次々に打ち出してこられました。改革の速度そのものには共感すべきところもありますが、スクラップを進めつつ、さまざまなビルドもまた行ってきたわけです。
それだけのビルドを行うのであれば、高校生までの医療費無償化こそ、そのビルドの中に含めてよかったのではないでしょうか? 財政が厳しいと言いながら新事業を次々に生み出していく、その姿勢をもう少し慎んでいれば。新たな事業の創出に前のめりにならず、様々な人の声を聞いて、もう少し財政負担を抑えることができていれば。今回の窓口負担以外のところで収支を改善する余地があったのではないかとも感じます。
万策を尽くしたようには見えない。子ども医療費の窓口負担は、上げないことこそが最優先の目的事項ではなかったか。それこそが、あるべき行財政改革ではないのか。そう感じられてしまうのです。万策を尽くしてなお、この窓口負担をお願いしなければならないということであれば、賛成の余地はあったかもしれません。子ども医療費の窓口負担は、そのくらい、重たい項目なのです。今回、ここ以外での削減努力が十分であったとは、どうしても感じられませんでした。
|説明の論旨にも違和感があった
当局が議員に説明する場面で、こういう話がありました。
「完全に無料であると過剰受診、いわゆるコンビニ受診が生じる。必要ではないかもしれない治療のために気軽に窓口に来る人が増え、医療従事者の負担も増える。市民負担を原資とする財源が、必要な分を超えて使われてしまう。最初の2回に負担を設けることで、こうした過剰受診を抑えられるのではないか」
——という説得の仕方です。
この話には、強い違和感を覚えます。
確かに、新型コロナウイルス禍で医療が逼迫した時期には、本当に重症の人を救うために救急車を呼ぶ必要があるのか一歩踏みとどまって考えてほしい、という議論もありました。気軽に医者にかかりすぎることに良くない側面があるのは事実だと思います。
ただ、「子どもの医療」にその原則を過剰に求めるのは、酷ではないでしょうか。
子どもと大人では、立場も条件もまったく違います。当然、「病院に行くべきか、家で様子を見るべきか」の判断は、大人のそれとは全く異なります。子どもの体調不良は、大人よりも予測不能なタイミングで起こります。生まれてからの年月が短ければ、自分の傷病歴と照らし合わせてその重みを判断する経験の蓄積もありません。だいいち、言葉が発達していない小さな子供は、どの程度つらいのかを保護者に説明できません。
近年は共働きの家庭も多く、保護者が家にいない間に子どもの具合が悪くなり、帰宅したときに状況をうまく把握できないという場面もあります。核家族が増え、さらにひとり親世帯も増えている中で、子どもの具合が悪くなったときに相談する相手がおらず、行っていいかどうかわからずパニックになってしまう方も一定数いらっしゃると感じますし、それは無理もないことです。
——この点について、私は「市長が医療の専門家であられることが、かえって見えにくくしている景色があるのではないか」という疑念を持っています。
|専門家には見えにくい景色があるのではないか
医療の知識をお持ちであれば、お子さんが具合を悪くしたときに、医者にかかるべき事案かどうか、ある程度判断できるでしょう。しかし、医療関係者ではないほとんどの保護者にとって、それは難しいことなのです。専門家にとって当たり前の判断が、そうでない者にとってどれほど困難か。その状況が、どれほど心細いものか。——専門家の常識と生活者の実感の距離が、この提案理由に滲み出ているように感じられました。
病院に行くべきか、悩んだ末に「行くべきだ」と判断して受診し、幸いにも大したことがなかった。そういうことは当然ありえます。そうした判断の揺らぎは誰にでも起こることです。それを「減らすために」という説明の仕方をして、病院に行くことに罪悪感を持たせてしまうような説得は、どうなのでしょうか。
医学的に正しく判断できず、結果として大したことがないのに病院に行ってしまった——そういう事態が起きたとしても、子どもの診察に関して言えば、それは社会全体が温かく見守るべき、必要なコストであると私は思います。それが「過剰」な受診だとは、まったく思えませんでした。
最後に
改革の手を緩めろと言っているのではありません。むしろ改革を進めるからこそ、手を入れる順番というものを、意識しなければならないのです。今の森市政は、この原則を忘れてしまっていないか。結果として、市民に背を向けていないか。そう思うからこその反対であったことを、ここに申し上げておきたいと思います。
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