2026/6/26
茅ヶ崎市とハワイ州のホノルル市の姉妹都市提携が10年を超え、茅ヶ崎市内でアロハマーケットが盛大に行われたり、ALohaの看板が茅ヶ崎市役所前に建てられるようになりました。
しかし、残念ながら、ハワイの歴史、とくに明治元年から戦前にかけてハワイに渡った日本人の歴史について、日本ではあまり知られていません。
日本からハワイへの移民が始まったのは1868年(明治元年)。このときに渡航した153人は「元年者(がんねんもの)」と呼ばれるようになりました。1886年に日本と当時のハワイ王国の間で日布移民条約が結ばれると、政府が斡旋する移民(官約移民)が始まり、三万人が渡りました。1894年からは民間会社を通した移民の斡旋(私約移民)が行われるようになりました。その後、1898年にハワイがアメリカに併合されると、新規の移民を認めないとする日米の非公式な協定が結ばれ、1924年に米国の移民法によって、日本からの移民は終わりを告げました。
日系人の多くは、移民先で、過酷な労働をしながら、アメリカ国民としての義務を果たし、よきアメリカ国民になろうと努力していました。稼いだお金を子供たちの教育のために注ぎ、アメリカで生まれ、アメリカ国籍を持つ二世の地位向上に熱心に取り組みました。
しかし、1941年に真珠湾攻撃が行われると、ルーズベルト大統領が大統領令9066号を発令し、アメリカ本土では、アメリカ国籍を持っているかどうかにかかわらず、12万人を超える日系人が強制収容所に送られました。他方、ハワイではすでに人口の三分の一が日系人だったため、日系社会の有力者を除き、多くの日系人は街中で暮らしていました。母国と信じていたアメリカ政府や社会の仕打ちに怒った本土やハワイの日系人の中には、日系人も立派なアメリカ人であることを示すため、軍役を志願する者が出るようになりました。
1942年、ハワイ州兵の日系人を中心に、第100歩兵大隊(100th Infantry Battalion)が編成され、翌年には、ハワイの日系人と、アメリカ本土の強制収容所から志願した日系人で「ゴーフォーブローク(Go for Broke)、当たって砕けろ」をモットーとした第442連隊(442nd Regimental Combat Team)が編成されます。
第100歩兵大隊は、イタリアのサレルノに上陸し、連合軍の先頭に立って、ローマまであと10キロまで迫ります。しかし、そこでストップがかかり、他の米軍部隊が先頭になってローマに入城することになります。
1944年10月、第100歩兵大隊を編入した第442連隊は、フランス東部アルザス地方ブリエアの攻略戦に投入され、ドイツ軍との激戦の末、街を解放します。戦後、この街の通りの一つが「第442連隊通り」と名付けられます。
ブリエアの戦闘で大きな犠牲を出し、休養も与えられていなかった第442連隊に、ボージュの森でドイツ軍に包囲され「失われた大隊」と呼ばれた米軍の通称「テキサス大隊」275名の救出作戦への出動命令が出されました。第442連隊は、ついにテキサス大隊の生き残り211名の救出に成功しますが、自らは戦死者56名、負傷者800名を出し、「最も勇敢な部隊」と呼ばれます。
その後も第442連隊は作戦に投入され続け、ようやく後方に下がった際の師団長閲兵に3000名いるはずの兵が800名しかおらず、「部隊全員を整列させろといったはずだ」と怒った師団長が、「将軍、目の前に居るのがその全員です。(This is all the men, sir)」と聞いて絶句したと言うエピソードがあります。
その後、第442連隊は、兵員を補充され、イタリア戦線でドイツ軍と戦います。また、第442連隊傘下の一部部隊は、ドイツ国内のダッハウ強制収容所を解放しますが、日系人部隊が強制収容所を解放したという事実が公表されたのは1992年になってからでした。
第442連隊は、合衆国陸軍の中で最多となる7枚のアメリカ大統領部隊感状を含め、部隊全体で18,000もの勲章や賞を受け、「規模と従軍期間に比べ、米軍史上もっとも多く勲章を受けた部隊(The most decorated unit for its size and length of service in U.S. military history)」と言われ、戦後、トルーマン大統領はホワイトハウスの芝生に第442連隊を招き「敵兵だけでなく、偏見と戦って勝利を得た」と称えました。
さらに2010年には米国議会の議決により第100歩兵大隊と第442連隊の功績に対し、アメリカ合衆国で最も歴史があり、最高位の勲章である議会名誉黄金章が授与されました。
こうした日系人部隊の活躍は、アメリカ国内における日系人社会の地位の向上に大きく寄与しただけでなく、アメリカの公民権運動にも影響を与えています。
ハワイでは今でも、第100歩兵大隊と第442連隊は誇りをもって語られていて、私も外務大臣時代にハワイを訪問し、日系人部隊の生存者にお目にかかりました。
第442連隊の一員としてヨーロッパで戦い、片腕を失ったダニエル・イノウエ大尉は、戦後、ハワイ州から上院議員に当選し、大統領継承順位第三位の上院仮議長にまでなりました。
1980年にカーター大統領が強制収容と大統領令9066号に関する調査委員会を発足させ、私がワシントンに留学していた1983年に、調査委員会が大統領令の必要性は正当化できないと結論づけ、公式な謝罪と一人2万ドルの賠償金の支払いを提案します。1988年、レーガン大統領が市民自由法に署名し、強制収容に対して正式に謝罪するとともに、賠償金の支払いを開始し、日系人の強制収容に関する教育を全米の学校で行うための教育基金も設立されました。
2001年9月11日、アメリカで同時多発テロ事件が起こりました。その直後からイスラム系の人々に対するヘイトスピーチやヘイトクライムがアメリカ社会の中で起こります。なかにはイスラム系の人々の人権を制限しようとする動きもありました。
過去の強制収容の当事者であった日系人社会は、先頭に立ってこのような動きに反対する声を上げ続けました。当時アメリカの運輸長官をつとめていたノーマン・ミネタ氏は、人種プロファイリングによる身柄拘束は人種差別であると政府内で反対し、これを阻止しました。
同時多発テロ後のアメリカでは、人種による強制収容は行われませんでした。このときの日系人社会の動きを私は、誇りに思っています。
茅ヶ崎市とホノルル市の姉妹都市を通じて、こうした日系人の歴史がもっと多くの日本人に伝わることを期待したいと思います。
この記事をシェアする
ホーム>政党・政治家>河野 太郎 (コウノ タロウ)>「ゴーフォーブローク」