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2016/07/26
内閣官房長官や自民党幹事長などを歴任した野中広務氏が、1月26日に多臓器不全のため92歳で逝去しました。
野中氏について、自民党の森喜朗元首相は「野中氏の方が年上だったこともあり、私を指導してくれているおやじのような存在だった」と、また自民党の二階俊博幹事長は「偉大な先輩を失い、ひときわさみしく思っている。指南役としてご指導をお願いしたかった」と、その死去を悼む声が相次ぎました。
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野中広務氏は1925年10月20日、京都府南丹市(旧園部町)の生まれで享年92歳でした。旧制京都府立園部中学校を卒業後、日本国有鉄道大阪鉄道管理局に勤務します。1945年3月に陸軍に召集され、高知県で終戦を迎えました。
1951年に園部町町議会議員選挙に初当選。以後、3期を務めました。園部町議会議長を経て、1958年には園部町町長選挙に初当選。2期を務めます。
1967年には京都府議会議員選挙で初当選し、3期を務めました。自民党京都府連政調会長を経て、1978年には京都府副知事に就任しました。
野中氏は1983年の衆議院議員補欠選挙において、旧京都2区から立候補し、初当選します。以降、衆議院議員を連続7期務めました。自民党総務局長、衆議院建設委員長、予算委員会理事などの要職を歴任後、1994年の村山内閣では、自治大臣・国家公安委員長として初入閣を果たします。1995年の阪神大震災時には、自治大臣として被災地対策に尽力。同年のオウム真理教事件では、教団に破壊活動防止法を適用するよう主張しました。
1998年の小渕内閣では内閣官房長官を務めます。国旗国歌の扱いを巡り、広島県の県立高校校長が自殺した事件を受けて、「国旗及び国家に関する法律」を策定。法制化を進めました。小泉内閣では小泉首相と対立。2003年の自民党総裁選では、小泉氏を支援する青木幹雄参院幹事長(当時)、片山虎之助総務大臣(当時)らを批判し、「毒まんじゅうを食らったのではないか」という発言し、流行語になりました。総裁選では藤井孝男元運輸大臣を擁立したものの、小泉氏の再選を前に大敗。これを機に、2003年をもって政界を引退しました。自らの軍隊体験から「ハト派」を自認し、憲法改正にも反対の立場を取っていました。
野中氏の政治手法は「武闘派」「豪腕」と呼ばれる一方で、社会的弱者に心を寄せ、「義理人情に厚い」「気配りの人」と慕われる一面もありました。
阪神大震災の被災者やハンセン病患者の支援に力を入れるなど、弱い立場の人への優しさを持っていました。震災から3年後には、「被災者生活再建支援法」成立の議論において大蔵官僚を説得し、また「人と防災未来センター」の設立に関して、国と地元が費用を折半して負担する道筋を付けました。
筋を通し気骨を持った「闘う政治家」として、与野党から故人を偲ぶ声があがっています。
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