今年も年末恒例の「NHK紅白歌合戦」の出場歌手が発表されました。紅白歌合戦への出場は、歌手にとっては晴れの舞台。視聴者にとっても国民的な行事のひとつです。
実は政治家の中にも、紅白歌合戦に出場経験のある方がいます。現役議員・元議員を合わせて、紅白出場経験者5名を紹介します。
目次
今井絵理子氏は元女性ダンスアイドルグループ・SPEEDのメンバーで、2016年の参議院議員選挙において、比例区から自民党公認候補として立候補し初当選しています。初当選の際には自民党の全国比例で5番目に得票数の多い319,359票を獲得しました。
紅白歌合戦には1997年の第48回から1999年の第50回まで、SPEEDのメンバーとして連続3回出場。
1998年の白組対戦相手は同じく「沖縄アクターズスクール」出身のDA PUMP(「Rhapsody in Blue」)でした。
翌年3月に「SPEED」を解散することを発表して最後の出場となった1999年には、「my graduation’99」を歌い話題となりました。
三原じゅん子氏は元女優・歌手・カーレーサーで、2010年の参議院議員選挙において、比例区から自民党公認候補として立候補し初当選しています。
2016年には自民党神奈川県参議院選挙区第四支部長に就任。同年の参議院議員通常選挙では、神奈川選挙区で再選を果たしました。
紅白歌合戦には1982年に出場。紅組トップバッターを務めています。自身が歌ったのは「ホンキでLove me Good!!」で、対戦相手となったのは白組のトップバッター、シブがき隊でした。
喜納昌吉(きな しょうきち)氏は2004年参議院議員選挙に比例区から民主党公認候補として立候補し、当選しました。
喜納昌吉氏は琉球民謡を現代風にアレンジしたバンド「喜納昌吉&チャンプルーズ」の元メンバーで、参議院議員を1期、民主党沖縄県連代表を務めました。自身のキャッチコピーは「すべての人の心に花を、すべての武器を楽器に、すべての基地を花園に、戦争より祭りを」と、音楽家と政治家の両面が垣間見れます。
紅白歌合戦には1991年に出場した経験を持ちます。「喜納昌吉&チャンプルーズ」は、琉球民謡を元にした独特な曲調と沖縄方言(ウチナーグチ)が特徴的で「ウチナー・ポップ」と呼ばれていました。
高橋圭三(たかはし けいぞう)氏は元NHKアナウンサーで、1962年に日本初のフリーアナウンサーとなりました。1977年の参議院議員選挙では、無所属で立候補し当選しています。参議院議員を1期務めました。
高橋圭三氏は、1953年から1961年まで白組司会を担当しました。ちなみに、1955、56年には同じく元NHKアナウンサーで元参議院議員の宮田輝氏が、1958年には黒柳徹子氏が紅組司会を務めています。
宮田輝(みやた てる)氏は元NHKアナウンサーで、「芸能番組向けアナウンサー」の先駆け的存在でした。1974年の参議院議員選挙では、自民党公認候補として全国区に立候補しトップ当選を果たします。1978年の第1次大平内閣では、農林水産政務次官に就任。参議院議員を3期務めながら、フリーアナウンサーとして活躍しましたが、1990年の議員在職中に死去しました。
宮田輝氏のNHK紅白歌合戦での司会歴は、1953年から1973年まで20年に亘ります。歴代の司会者の中で、紅組司会、白組司会、総合司会の全てを担当したことがあるのは宮田氏のみです。また、通算15回の司会での出演も史上最多の記録となっています。
谷(旧姓田村)亮子氏は元柔道選手で、1992年のバルセロナオリンピックから2008年の北京オリンピックまで5大会連続でメダルを獲得し、「ヤワラちゃん」の愛称で親しまれました。2010年の参議院議員選挙では民主党の比例代表候補として有田芳生氏に次ぐ個人票第2位で当選。その後小沢一郎氏とともに離党して、「国民の生活が第一」「日本未来の党」「生活の党」「生活の党と山本太郎となかまたち」と所属を変え、党副代表などを歴任。2016年の参議院議員選挙には立候補せず、政界を離れました。
紅白歌合戦にはバルセロナオリンピックで金メダルを獲得した翌年の1993年に審査員として初出演。当時18歳でした。
「NHK紅白歌合戦」に出場経験のある政治家を紹介しました。
歌手として出場した現役・引退議員。司会者として、長年紅白歌合戦を盛り上げた元議員。懐かしい場面が浮かんできますが、皆さんの知っている政治家はいたでしょうか?
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