前編では、流山市が”選ばれるまち”に変わった経緯を取材しました。
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中編では、それを仕掛けた井崎義治市長の素顔に迫ります。
政治家は「ありえない選択だった」と話す井崎市長は、どのような経歴を持ち、なぜ市長に立候補しようと思い至ったのでしょうか。
幼い頃から地図を片手に、自転車で街を走り回っていたという井崎市長。
都市化によって変わりゆく街を見ることが面白かったと話します。大学・大学院とも都市計画(まちづくり)を学び、卒業後はサンフランシスコで都市計画コンサルタント会社に勤務。12年間の海外生活を終え、1989年に帰国します。
「まちづくりのプロとして、どの街に住むかは沽券に関わります。民度が高く、緑があり、将来性がある街を探し、流山市を選びました
帰国後は民間シンクタンクに勤めていたそうです。
帰国して10年が経つ頃、地域紙から「流山市の財政状況について連載をしてほしい」と声がかかります。
「このことがきっかけで、街の財政が悪化しており、街の将来性を潰すような都市計画の案件も出てきたことを知りました。環境と将来性を託して移り住んだ流山市の未来に対して、危機感を抱かざるを得ませんでした」
実際、市長になってすぐ(2003年)に計算した財政見通しでは、2007年度には予算が組めなくなることが明らかになります。
「就任後すぐに取り組んだことは、マーケティング戦略ではなく行財政改革でした。1円まで生かす市政、つまり、無駄を排して効率的・効果的な市政経営を行うための行財政改革に取り掛かりました。そうでないと、マーケティング戦略に基づいて必要な施策に取り組むことができなかったからです」
こうした危機的な背景から、市民グループを作って市長候補を探しました。しかし、流山市の将来を託すことができる人を見つけ出すことはできませんでした。
「そこで、自分が立候補することにしました。しかし、週末以外は流山市にいない生活をしていたため知名度が全くありませんでした。1999年の市長選では、約8000票差という僅差で落選しました」
「一人のサラリーマンとしてやれることはやったと思いましたが、『目標を達成していないのに諦めるんですか』という市民の声に、『失敗したところでやめるから失敗になる。成功するまでやればそれは成功になる』という松下幸之助の言葉を思い出し、もう一度立候補しようと決意をしました。自分が選んだ可能性の高いまちがダメになっていくのを、見ていられなかったのです」
そして2003年の市長選で初当選します。立候補する以前は、政治をどのように見ていたのでしょうか。
「政治に関心はありましたが、まさか自分が立候補するとは思いませんでした。ありえない選択でした。私の学生時代の友人たちは驚いていましたし、『政治家に一番向いていないタイプなのに、本当にやるのか?』と心配してくれるほどでした」
このように語る井崎市長は、初当選以降、毎回得票率を向上。3選時と昨年春の4選時には77%の票を獲得しています。
「『1円まで生かす効率的・効果的な市政経営』、『市民の知恵と力を活かす街づくり』、『流山市の可能性を具体的にカタチにする』、これらのことが自分の仕事だと決めてきました。それは、今もこれからも変わりません」
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