田中 としかね ブログ
「傍若無人」
四字熟語のように見えますが実は「熟語」ではありません。「傍若無人」は、漢字四文字で構成される「文章」、「漢文」なのです。日本語への「書き下し文」(日本語文法の語順に並べ替えた文)にしてみると、よくわかります。「傍(かたわら)に人無きが若(ごと)し」となります。「人前をはばからず勝手気ままな言動をすること」という意味です。中国の歴史書『史記』に記されたエピソードに関する言葉なのです。こうした「昔の出来事が元になってできた言葉」を「故事成語」と言いますよね。「塞翁が馬」や「五十歩百歩」などが例として挙げられます。「傍若無人」はこの「故事成語」でありながら、形のうえで「四字熟語」のようになっているケースなのです。他にも「四面楚歌」「温故知新」などがありますよ。
『史記』に登場する「傍若無人」のエピソードというのは、中国の戦国時代に燕(えん)の皇太子に頼まれて、秦の王(後の始皇帝)の暗殺を謀った荊軻(けいか)という人物にまつわるものです。友人の高漸離(こうぜんり)とともに毎日お酒を飲み、宴もたけなわになると街の中にくりだして、歩きながら高漸離は楽器を鳴らし、荊軻はそれに合わせて歌い、さんざん騒いだ挙句、抱き合って泣き出したりしていたといいます。その様子がまさに「傍らに人無きが若し」(そばに人がだれもいないかのように、わがまま勝手にふるまう)だったのですね。教室の中で男子たちが、ふざけあって騒いで盛り上がっているのを、白い目をして女子たちが、あきれて見ているという風景に置き換えると、身近なエピソードのように思えます。
ところで私は、「傍若無人」という言葉を聞くと、ある人物のエッセイを思い出すのです。昭和を代表する作詞家として日本の歌謡史に大きな足跡を残した、阿久悠さんの文章です。エッセイのタイトルは『普段着のファミリー』といいます。その中で阿久悠さんは、「他人の自由を奪う自由、これが…、傍若無人の自由として蹂躙するのである」という苛烈な言葉で、「自由」の意味を履き違えている人たちを批判しています。「社会に対しての適応性や、他人に対する最低限必要な緊張感や、時と場所を全く心得ない」人を、「教養」に欠ける者として糾弾するのです。その例として「あらゆるときに普段着(部屋着、パジャマのようなもの)で通そうとするファミリー」を登場させています。確かに着ていて一番着心地がよいのはパジャマです。だからといって、寝るときだけではなく、人と会うのも、レストランで食事をするのも、パジャマ姿で通してかまわないということはないでしょう。寝るときと、うちにいるときと、外出するときと、それぞれ別の装いをするのが人間の文化的な営みなのです。にもかかわらず「どこでも同じように通す」ことを、「自由なスタイル」だと思いこむのは、本当の意味では何も考えていないに過ぎません。
「傍若無人」は決して「自由」ではありません。「自由」を使いこなすには「教養」が必要である、というのが阿久悠さんの主張です。皆さんにとっては「昭和」という時代がかった、古くさい説教のように聞こえるかもしれませんが、大切な視点だと思います。場違いな振る舞いをすれば、品性を疑われかねないという怖さを知っているのがオトナという存在であったはずなのです。「自由なスタイル」を楽しむためには、臨機応変に対応するセンスを身につける必要があります。このセンスは、持って生まれたものというよりも、日々の習慣によって確立されるものだといえるのです。そして、これこそがオトナの「教養」なのです。
著者
| 肩書 |
文京区議会議長 特別区議会議長会会長 |
| 党派・会派 |
自由民主党
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