2023/9/9
8月21日~24日まで 参政党議員団で長崎県の対馬と壱岐島へ行って参りました。
国まもりを政策の中心においている参政党として、元寇の歴史を学び、何を想い、何のために、どの様に戦ったのかを知り、心構えを学ぶという目的の視察です。
私の元寇の知識は、歴史の教科書で学んだ神風が吹いて辛うじて蒙古襲来から守る事ができた程度のものでした。
事前に家村和幸先生の「元寇」についての講義を受けての参加でしたので、学校で学んだ知識とは随分と違っていたのだなという感想を持っての参加でした。
少数で大軍を相手にする。こういった状況に置かれたのが、「元寇」(げんこう)と呼ばれる外国の侵略を受けた鎌倉時代の壱岐・対馬でした。
文永11年(1274年)10月12日、蒙古(モンゴル)・高麗(朝鮮)連合軍の約3万人の大軍が、対馬を襲いました。守る守備は、対馬の守護代宗助国(そうすけくに)以下80余騎と数百人の兵力です。対馬の町はあちらこちら石垣だらけです。護りの島だったことが伺えます。
対馬の領主宗助国は、対馬の事だけを考えるのであれば、蒙古・高麗軍の大軍の襲来に対し、逃亡、降伏、籠城などと言った選択肢があったのかもしれません。しかし、守護代宗助国は島の南西部の「小茂田浜」(こもだはま)への敵の大軍襲来を知ると、島の南東部にあった国府を出て、沿岸部まで行って迎え撃ち、討死をして部隊は全滅したと言われています。残された島民は、蒙古・高麗軍から虐殺や、誘拐されました。女性は手に穴を開けられて縄で船につなげられるなど、残虐非道の限りを尽くされたそうです。
そして数日後には、壱岐が襲われ、壱岐の守護代平景隆は、浦海などの浜辺に上陸した敵を100騎余りで迎え撃ち、高麗橋、唐人原などの平野部の戦場で戦いました。追い詰められて自ら討ち死にし、兵力も全滅したとされます。壱岐にある案内文によると、壱岐に上陸した元軍は、島の人々を見つけ次第危害を加え、元軍は、ただ逃げ惑う武器も持たない島人を追いかけて容赦なく矢を射かけ、太刀を振り下ろし、時にはなぶり殺しを楽しんでいたと書かれていました。この様な残虐行為を繰り返した元軍が通過した後は、島人の死体が累々と横たわっていたそうです。かろうじて生き残った人々は、死体を埋葬し塚を作りました。多くの死体を埋めた事から「千人塚」と呼ばれお祀りされています。
その後博多湾に侵入して博多に上陸した3万の元軍は、幕府の軍隊9000名と激しい戦闘を繰り広げ、武士団の強さに驚き、翌朝、蒙古・高麗軍が船に戻った後、暴風雨に遭い、本国へ退却。こうして一度目の蒙古襲来に対し、日本は九死に一生を得ます。
なぜ壱岐・対馬の守護代とその守備兵力がともに、全滅に至るまで戦ったのでしょうか?
この答えが今回参政党議員団の研修先に対馬、壱岐が選ばれた理由があると思います。
対馬や壱岐の守護代に任命された領主が、自分の身や、自分の島のことだけを考えていたならば、全滅するまで戦う、という選択はしなかったのではないでしょうか?
それぞれの島で命懸けで戦い、死力を尽くし敗戦したからこそ、本土の戦いで蒙古軍の襲来から日本を守ることができたともいえます。
そして仮に、壱岐・対馬が戦わずして降伏し、あるいは相手に服従をして食料や資材などを提供した上で敵が博多湾に押し寄せていたら、本土はどうなっていたでしょうか?壱岐・対馬で数日間でも足止めをされなかったら、日本にとって絶好のタイミングで、暴風雨はこなかったかもしれません。
自分たちが犠牲になっても対馬・壱岐の島民は、本土に住む同じ日本人、日本を守るという意識を強く持っていたのではないでしょうか。対馬・壱岐は、県内でも有数の神社があり、縄文・弥生遺跡や古墳、神社などの信仰、気候や風土、文化・産業・温泉など、日本の本土とほとんど変わりありません。古き良き日本が大切に継承されていました。
しかし非常に残念に思う事もありました。それは、島の職員さんに離島の取り組みや問題点などをお話いただいたのですが、地元の方にも関わらずほとんど元寇の事はご存知ないとの事でした。
そういった影響もあるのでしょうか?いくつかの神社は手入れもされず草が生い茂り、ジャングルの様になっていて、お参りができないような所がありました。また、対馬博物館と壱岐市立一支国(いきこく)博物館も見学に行きました。それはそれは、素敵な博物館です。しかしながら、両博物館とも元寇の事には全く触れられていません。これは一種歪んだ教育のせいなのでしょうか?現に壱岐市立一支国博物館には、当時の生活を再現したジオラマ展示がされているのですが、日本人は裸足で粗末な物を身にまとっています。それに対して中国人は華やかなものを身に付け靴も履いています。これもとてもおかしな事の様に思います。この展示も何か他の意図が働いているのでは?と思ってしまいました。
今、日本はまさにサイレントインベージョン(静かなる侵略)が行われている最中です。まさに気付かない内にです。今回の対馬・壱岐視察は、そんな状況の日本を参政党の議員としてどう活動すべきなのか、何を優先すべきなのかを考えさせられる旅でした。
元寇に関して学校では詳細に教えてくれません。ただテストのために年号を丸暗記するだけ。途中、島の職員さんが講演のために来て下さいましたが、元寇についてはほとんど知らないとの事でした。あまりに悲惨な状況に島民にとっては忘れたい出来事であったのかもしれませんが、当時の日本人が何を護るためにどう戦ったのか、どう生き抜いてきたのかぜひ、後世にも伝えていって欲しいと思います。
長くなりましたので、個々の訪問先については、また改めて・・・。
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ヤマモト アキコ/56歳/女
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