2026/6/27
自衛官として勤務していた者として、国旗に対する礼の重みは、身体で覚えています。
自衛隊において、国旗、天皇陛下、そして亡くなられた隊員の棺に対する敬礼は、最上級の敬礼です。
それは、一人ひとりの隊員が何を背負い、何のために任務にあたるのかを確認する、極めて重い所作です。
国旗は、単なる布ではありません。
そこには、先人たちが築いてきた歴史があり、いまこの国で暮らす人々の思いがあり、国民を守るために日々任務にあたる人々の覚悟があります。
私は、国旗を粗末に扱う行為に共感しません。
しかし、だからこそ、私は、国旗損壊罪(国旗の損壊等の処罰に関する法律案)をめぐる議論の中で、「国旗を大切にする気持ちが醸成され、愛国心も醸成されていく」という趣旨の発言に、強い違和感を覚えます。
本法案の成立を契機に、国民が自国についての帰属意識、一体感等を抱くことによりまして、国民の気持ちの上での結合、統合の役割を果たすという国旗の意義がますます向上し、今後一層、国旗を大切にするという気持ちが醸成されていく、そして愛国心、国を愛する心も醸成されていくのではないかというふうに考えております。
阿部圭史法案提出者(衆議院内閣委員会、令和8年6月26日)
この発言の何が問題なのか。
国旗を大切にしようと言ったからではありません。
刑罰によって愛国心が育つかのように語ったからです。
国を愛するとは、何でしょうか。
それは、政府を無条件に支持することではありません。権力に従順であることでもありません。他国を見下すことでもありません。
国を愛するとは、この国に生きる人々の暮らしを大切に思うことです。家族を思い、地域を思い、先人たちの努力を受け止め、次の世代に良い社会を渡したいと願うことです。
そこには、保守も革新もありません。
伝統を大切にする人も、自由を大切にする人も、平和を願う人も、国防を重視する人も、本来は同じ土台に立っています。
この国を、どうすればよりよくできるのか。
この国を、どうすれば次の世代に引き継げるのか。
その問いに真剣に向き合う心の中に、愛国心があるのです。
そのような心は、刑罰で作れるものではありません。
刑罰の役割は、まずもって、一定の行為を抑止し、具体的な法益を守ることであるからです。
日本は、国旗・国歌を法で定めながらも、国旗への敬意を国民に刑罰で強制するという道は取ってきませんでした。
これは、弱さではなく、思慮深い態度だったのではないでしょうか。
尊重する心は、強制ではなく、理解と納得によって支えられるべきです。
もし、国旗への敬意が社会全体で十分に共有されていないと感じるなら、まずやるべきことは刑罰を作ることではありません。
国旗とは何か。国家とは何か。天皇、国旗、国歌、公的儀礼、戦没者追悼、自衛隊、地域共同体は、どのようにつながっているのか。
そうしたことを、丁寧に語り直すことです。
それをせずに、いきなり刑罰で「愛国心が醸成される」と語れば、国旗は統合の象徴ではなく、分断の象徴になってしまう危険があります。
保守の立場から見ても、刑罰で愛国心を作るという発想は危ういと言えます。
なぜなら、保守とは本来、歴史や伝統や共同体の自然な積み重ねを大切にする立場だからです。
国旗への敬意も、本来は生活の中で育つものです。
祖父母から聞いた話、学校行事での経験、自衛隊や消防や警察の姿、そうした具体的な経験の中で、少しずつ育つものです。
それを国家が刑罰で一気に作ろうとするのは、むしろ保守が大切にしてきた自然な共同体感覚から離れ、上からの国家主義に近づいてしまう危険があります。
自由を大切にする立場から見ても、問題は明らかです。
国家象徴に対する批判的表現は、しばしば政治的意見と結びつきます。
もちろん、何をしても自由だということではありません。器物損壊、威力業務妨害、脅迫、暴力的な挑発などは、既存の法秩序の中で厳正に対処すべきです。
しかし、国家が「国民感情」や「愛国心」を背景に処罰を正当化しようとするとき、表現が萎縮する可能性があります。
政治的な風刺、歴史認識をめぐる表現、芸術、報道、研究、インターネット上の議論まで、萎縮が広がるかもしれません。
国家は、国民の内心に踏み込んではならない。これは、自由主義の基本であると同時に、成熟した国家の基本でもあります。
私は、国旗を傷つける行為を放置してよいと言っているわけではありません。
たとえば、外国勢力が日本社会を分断する目的で、偽情報や組織的な扇動と結びつけて国旗損壊の映像を利用する。公的式典を妨害する。外交施設や官公庁の国旗を破壊する。威力を用いて人々を威嚇する。
こうした行為については、国家として厳正に対応すべきです。
しかし、その場合に守るべきものは、国民の内心ではなく、公的儀礼の平穏、国家機能の正常な遂行、外交秩序、公共の安全です。
もし立法を考えるなら、そこに限定すべきです。
「国旗を大切に思う国民感情」を守る。
「愛国心」を醸成する。
そうした説明に踏み込むべきではありません。
国旗は、本来、与党のものでも野党のものでもありません。
保守のものでも革新のものでもありません。
政府のものでも、特定の政治勢力のものでもありません。
国民全体のものです。
だからこそ、国旗をめぐる議論は、最も慎重でなければならない。
国旗を大切にする人の思いも、国家権力の濫用を警戒する人の思いも、どちらも軽んじてはならないからです。
その難しい道を、私は歩みたいと思います。
服従より納得。強制より信頼。
ここにこそ、日本にふさわしい国家統合の形があると、私は考えます。
追伸
自衛官として国旗に向き合い、時に取り扱ってきた者としては、国旗への敬意は、単に掲げればよいというものではありません。国旗の扱い方、掲げ方、しまい方、そこにある所作の一つひとつに、敬意は表れます。
その観点から、私はときおり、国旗への敬意を語る方が掲揚する際の所作に「著しく不快又は嫌悪の情」(法律案第2条)を催すことがあります。
しかし、だからと言って、私は、彼らに罰則を適用したいとは思いません。
ここにこそ、この問題の難しさがあります。不快かどうか、嫌悪を覚えるかどうかを、刑罰の中心に置いてはならないのです。
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ホーム>政党・政治家>橋本 みきひこ (ハシモト ミキヒコ)>刑罰で愛国心を語るな。国を愛する心は、命令で育たない。