2026/8/10
先日、国土交通省が「四国の新幹線」と「東九州新幹線」について、実現に向けた初めての調査を始めるというニュースが流れました。全国に11ある新幹線の「基本計画路線」のうち、こうした本格的な調査が行われるのは今回が初めてのことです。
このニュースを見て、下関市民の多くが気になったのではないでしょうか。「では、山陰新幹線はどうなっているのか」と。
実は山口県下関市にも、新幹線の"夢の跡"が今も静かに残っています。新下関駅の新幹線ホーム、その3番のりばの西側をよく見ると、線路も敷かれていない、行き場のない橋脚と高架構造が不自然に伸びているのをご存知でしょうか。これこそが「幻のホーム」と呼ばれる、山陰新幹線のために用意されたまま半世紀以上手つかずになっている空間です。
そもそも「基本計画路線」とは何でしょうか。1970年に制定された全国新幹線鉄道整備法に基づき、国は1973年、将来建設を目指す新幹線として全国に11の路線を「基本計画路線」に指定しました。山陰新幹線もこのとき決められた路線の一つです。ただし基本計画路線は、あくまで「いつか作るかもしれない候補」という位置づけにすぎません。実際に着工へ向けて動き出すには、詳細なルートや事業費を固める「整備計画路線」への格上げが必要で、今回国交省が四国・東九州で行う実現可能性調査(ケーススタディ)は、その格上げに向けた一歩にあたります。現在開業している北陸新幹線や九州新幹線、リニア中央新幹線なども、かつてはこの基本計画路線からスタートし、整備計画への格上げを経て建設にこぎつけた路線です。
山陰新幹線は、大阪から鳥取・松江を経て下関に至る、全長約550kmの壮大な計画路線です。1973年に国の基本計画として正式に決定されましたが、皮肉なことにその直後、オイルショックが日本を襲いました。国は総需要抑制策、つまり緊縮的な財政運営へと舵を切らざるを得なくなり、山陰新幹線をはじめとする多くの基本計画路線は、そのまま塩漬け状態となってしまったのです。
もし計画通りに進んでいれば、新下関駅は山陽新幹線と山陰新幹線が合流する、西日本有数の「ハブ駅」になっていたはずでした。日本海側と瀬戸内海側、二つの新幹線が交わる結節点。今回の"幻のホーム"は、その未来を見据えて用意された、いわば下関の"もう一つの可能性"の痕跡なのです。
行政に関わる仕事をしていると、こうした「決まったのに止まった計画」を目にすることが少なくありません。制度や計画は、一度決まれば自動的に進むわけではなく、時代の情勢や財政状況によって何十年も止まったままになることがあります。山陰新幹線もまさにその一例です。
個人的な話になりますが、新下関駅が今の姿になったのは1975年、新幹線の駅として生まれ変わったこの年は、私自身が生まれた年でもあります。当時、新下関という地に暮らし始めた人々の中には、いずれこの街が山陰と山陽を結ぶ玄関口になるという未来を思い描き、期待を持ってこの地に根を下ろした方も少なくなかったのではないでしょうか。私の両親もまた、そんな時代の空気の中でこの街に住むことを選んだのかもしれません。そう考えると、"幻のホーム"は単なる鉄道インフラの跡ではなく、その時代を生きた人々の思いそのものが形になったもののようにも感じられます。
四国や東九州で調査が動き出した今だからこそ、あらためて問い直したいのです。山陰新幹線が、そして新下関駅の"幻のホーム"が本当の意味で目を覚ます日が来れば、下関にはもう一度、交通の要衝としての発展の芽が生まれるかもしれません。半世紀前に描かれた夢は、まだ完全に消えたわけではないはずです。
この記事をシェアする
シライシ ソウ/51歳/男
ホーム>政党・政治家>白石 そう (シライシ ソウ)>新下関駅の"幻のホーム" 山陰新幹線の夢のあと