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豊臣秀頼には、側室との間に実子一男がいた。

2025/12/11

豊臣秀頼には、側室との間に実子一男がいた。名を国松という。大坂夏の陣の際に城を脱出し京都に潜伏したが、のちに捕らえられ斬首された。

高台院(おね、豊臣秀吉の妻)が、国松の遺骸を受け取りその菩提を弔った。高台院の依頼を受けてそのように手続を進めたのが、片桐且元であった。

この片桐且元、豊臣秀吉の家臣として賤ヶ岳七本槍の一人にも数えられ、関ヶ原の合戦の後も豊臣方にあって長らく重臣として秀頼、淀殿を支えてきた人物である。

片桐且元は、豊臣が徳川を呪ったとされる方広寺事件の解決にあたり、①秀頼が大坂城を出る、②淀殿を人質として江戸へ送る、③秀頼が江戸へ参勤するのいずれかを選択すべきと意見して豊臣方から裏切り者扱いされて、結果、大坂城を退去した。

このため、且元は、長らく豊臣を裏切った不忠者とされてきた。しかしながら、且元は、最後まで豊臣家のため、その存続のために尽力し苦悩していたとの評価もある。

実は、高台院の兄の家系である九州木下家には一子相伝の伝承が残されている。京都で斬首された国松は替玉で、本物の国松は九州木下家に落ち延びて匿われ、藩主の弟と偽り木下延由と名を変えて日出藩主となって生き延びたというのだ。

史実では、大坂夏の陣で秀頼が自刃し終戦したのが、1615年5月8日。国松が処刑されたのが同年5月23日。片桐且元が肺病のため亡くなったとされるのは同5月28日である。

もしかすると、且元は、秀頼を救うことができなかったことを亡き太閤秀吉に申し訳なく感じつつ、せめて国松だけはとその逃亡の手配をし、無事に裏の画策が完了したのを見届けて自ら命を絶ったのではないだろうか。

歴史には、様々な人々の想いと様々な真実が隠されている。だから歴史は面白い。

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高橋 ひでとし

高橋 ひでとし

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肩書 弁護士、温泉ソムリエ、博士(法学) LL.D.大学講師
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