2026/8/9
“令和8年8月8日”
元号・月・日で8が三つ並ぶのは平成8年8月8日以来30年ぶりで、さらにその前は戦前の昭和8年8月8日。
100年間で3回しかないメモリアルな日、さらには末広がりの8ということで、婚姻届を出すカップルが多かったそう。
そうしたニュースに触れる中、先ほど朝散歩で会った近所のおばちゃんと話すとなんと、娘さんが昨日、結婚されたとのこと。
「それは縁起が良いですね!」とお声かけするとともに、祝福の言葉を送ったところですが、来年は「999」。
単純思考の私としては、すぐに頭をよぎった松本零士さんの「銀河鉄道999」。
「999」とゆかりのある本市だからこその、ロマンチックなイベントを企画する絶好の日になるのではと思った次第です。
そうして、おめでたい日となった8月8日ですが、一方、敦賀に住む者として決して忘れてならないのは、昭和20(1945)年8日8日にあった、敦賀への「模擬原爆」投下。
午前9時頃、アメリカ軍が原爆投下の訓練のため、敦賀市の東洋紡(当時は東洋紡績)に爆弾を投下し、動員されていた学生ら33人が犠牲となってから81年を迎えました。
かのB-29爆撃機が敦賀に投下したのは、長崎に投下した原子爆弾と同型の模擬爆弾(通称パンプキン)。
この投下以前にあった、同年7月12日、7月30日の空襲で甚大な被害を受けた敦賀に三度目となる空襲の当時の状況は、「敦賀市史」通史編(下巻)第四節 三.敦賀大空襲に、次のように記録されています。
※昨年のブログでも同じ引用をしましたが、「風化させない」という思いで今年も掲載いたします。
<以下、「敦賀市史」を引用>
(7月30日の空襲に)ついで、八月八日午前九時ごろ、空襲警報が発令され、市民は防空壕に退避した。まもなくB29が単機敦賀上空に現われ、一旋回して低空飛行の態勢で東洋紡績工場に爆弾を投下し、そのまま南方に飛び去った。この爆弾は、東洋紡の捲糸室に命中し、火災となった。また隣接していた紡糸室と事務所の一部とが爆風のために破壊された。この爆撃で、工員一五名、動員学徒一六名、引率教員二名の命が失われた。
こうしたなかで敦賀は、八月十五日の敗戦の日を迎えるのである。なおこの項の記述にあたっては、多く『敦賀市戦災復興史』の記述を利用させていただいた。
<引用終わり>

【模擬原爆の被害にあった東洋紡敦賀工場の様子(出典元調査中)】
私は以前に、東洋紡敦賀工場にお伺いし、保存されてる当時の資料を拝見させていただいたことがありますが、81年前にあった史実を目の当たりにし、突然若き命を奪われた方々の無念、そして長崎の予行演習とばかりに模擬爆弾を投下したその行為に強い怒りを覚えたことを思い返すところ。
このようなことを二度と繰り返してはならないとの思いが沸々と湧いてきます。
そして、敦賀の模擬原爆投下から一夜明けた、昭和20年8月9日午前11時2分。
原爆搭載機ボックス・カー号は、高度9,600メートルの上空から、広島に次ぐ第二号の原子爆弾(プルトニウム爆弾)を長崎に投下しました。
長崎での原爆投下による被害の状況等は、以下、長崎市のホームページ(HP)をご覧ください。
→長崎市HP「ながさきの平和」関連ページはこちら
その長崎市では本日10時45分より、「被爆81周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」が開催されます。
8月6日と同じく、あらためてこうした日に、唯一の戦争被爆国として、核保有国と非保有国、あるいは世界平和の架け橋、橋渡し役ができるのは日本であり、まっすぐにその役割を果たしていかねばと思いを強めつつ、式典会場で行われるのと同じ時間。
11時02分には、静かに黙祷を捧げたいと思います。

【今朝の空模様。どこか燃えるような雲がアートのようでしたが、81年前の今日はどんな空だったのか。】
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ホーム>政党・政治家>山本 たけし (ヤマモト タケシ)>決して忘れまじ 〜81年前、敦賀に投下された「模擬原爆」〜