2026/5/14
読売新聞の報道によれば、2032年度以降に実施予定の高校の学習指導要領で、国語の科目構成が再編される見通しとのことです。
現在の高校国語では、「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」などに科目が分かれています。しかし実際には、大学入試との関係もあり、「論理国語」や「古典探究」は多く履修される一方で、「文学国語」や「国語表現」は十分に履修されていない学校もあるようです。
つまり、高校生が小説や文学作品に触れる機会が減っているということです。
私はこの記事を読んで、これは単なる高校国語の科目名の問題ではなく、これからの社会において「人間に何が求められるのか」という大きな問いにつながっていると感じました。
いま、生成AIは驚くほどの速さで文章を作ります。要約もできます。論点整理もできます。場合によっては、私たち人間よりも整った文章を書くことすらあります。
しかし、AIがどれほど発達しても、人間が完全に手放してはいけないものがあります。
それは、相手の気持ちを想像する力です。
文学を読むということは、単に物語を楽しむことだけではありません。自分とは違う時代、違う地域、違う境遇に生きる人の心に触れることです。登場人物の迷いや痛み、喜びや葛藤を通じて、「人はなぜそう考えるのか」「なぜそのように行動するのか」を想像する訓練でもあります。
これは、社会を生きるうえでとても大切な力です。
政治や行政の世界でも同じです。数字や制度を論理的に理解する力はもちろん必要です。しかし、それだけでは十分ではありません。その制度の先にどんな人がいるのか。困っている人は何に苦しんでいるのか。声を上げにくい人の思いをどう受け止めるのか。
そこには、論理だけでなく、想像力や共感力が必要です。
一方で、現代の子どもたちを取り巻く環境は大きく変わっています。記事によれば、高校生の平日のインターネット利用時間は平均6時間44分に及ぶ一方、読書時間は1日わずか11分とのことです。
SNSでは、短い言葉が次々と流れていきます。便利で楽しい反面、長い文章をじっくり読み、考えを深める時間は確実に減っているのかもしれません。
さらに、ネット社会では、自分の関心に近い情報ばかりが表示される「フィルターバブル」や、似た意見の人たちの中で考えが偏っていく「エコーチェンバー」の問題も指摘されています。
だからこそ、国語教育の役割はますます大きくなっているのだと思います。
論理的に読む力、正確に書く力、根拠をもって説明する力。これらはもちろん重要です。しかし、それと同じくらい、物語を読み、人の心の奥行きに触れることも重要です。
論理と文学は、本来、対立するものではありません。
論理は、物事を筋道立てて考える力です。文学は、人間を深く理解する力です。どちらか一方だけでは、これからの社会を生き抜く力としては不十分ではないでしょうか。
AI時代に必要なのは、AIのように速く処理する人間ではなく、AIには簡単にまねできない、人間らしい判断ができる人間です。
そのためには、論理の力と、感性の力の両方を育てる教育が必要です。
今回の高校国語の再編は、ある意味で「分けすぎた国語教育」をもう一度つなぎ直す試みなのかもしれません。
評論を読み、社会を考える。小説を読み、人間を考える。古典を読み、時代を超えた知恵に触れる。そして自分の言葉で表現する。
それらが一体となってこそ、国語教育の本来の力が発揮されるのだと思います。
本を読む時間が減り、短い言葉が社会を飛び交う時代です。だからこそ、子どもたちには、長い文章と向き合う経験をしてほしいと思います。
すぐに答えが出ない文章を読むこと。簡単に割り切れない登場人物の気持ちを考えること。自分とは違う考え方に出会うこと。
それは、遠回りのように見えて、実はこれからの社会を生きるための一番大切な学びなのかもしれません。
AI時代だからこそ、文学を読む。
この記事を読んで、あらためてその意味を考えさせられました。
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