2026/8/6
【練馬区】
第34回 平和祈念コンサート🕊️
8月6日、練馬文化センター大ホールにて開催され、出席致しました。
冒頭の練馬区長の挨拶で、平和の大切さとともに語られた
「平和の脆さ」
という言葉が、とても印象に残りました。
◆戦時体験の講演
綿平敬三さん
〜核兵器も戦争もない世界の実現を目指して〜
綿平敬三さんは被爆者練馬の会代表で、1歳8か月の時に広島で被爆されました。
お父さん、その後弟さんも亡くなり、生き残ったのは、お母さんと綿平さんだけ。
「生きている限り、動ける限り、平和な世界のために」
という一言に、これまで綿平さんが歩んでこられた人生の重みと、平和への強い思いが込められているように感じました。
2歳にも満たなかった綿平さんには、被爆の記憶はありません。
そのため、さまざまな記録を紐解きながら、ご自身の体験を語ってくださいます。
仕出し料理の板前だったお父さんのお店は、爆心地から800m。一瞬にして燃え、地域の81%の方が亡くなった場所だそうです。
実の父が、どう最期を迎えたかも、わからない。
お父さんの死を、想像しながら語る綿平さんの思いは、どれほど深いものだったでしょうか……。
覚えていないからこその、悲しさ。
お母さんと敬三さんは、爆心地から約2kmの駅にいました。
燃え広がる街の中を、お腹に弟さんを宿したお母さんは、幼い敬三さんを連れ、必死に逃げます。
戦後、5歳になった年、弟さんが亡くなりました。
まだ3歳にも満たない幼さでした。
「この病気はうつる」
そう言われ、すぐに荼毘に付されたそうです。
敬三さんが家族と暮らせたのは、この時まで。
わずか5歳で母と離れ、親戚の家へ預けられます。
お母さんは働いて仕送りを続け、敬三さんは貧しい暮らしの中、山へ行って食べられるものを探す生活を送っていたそうです。
暮らしがようやく落ち着いたのは、高校を卒業してから。
しかしその後も、お母さんが91歳で亡くなるまで、一緒に暮らすことはありませんでした。
お母さんには、離れて暮らさざるを得なかったことへの負い目もあったようです。
父の顔も、弟の顔も思い出せない。
母の写真もない。
「広島の業火の中で、すべて失った」
と語る綿平さん。
老年になって、お母さんから贈られた一通の手紙だけが、親子をつなぐ宝物に。
60歳になった敬三さんに、お母さんは
「こづかいあげる」
と綴りました。
原爆のために、離れ離れで暮らさざるを得なかった親子。
60歳になった息子に「こづかいあげる」と伝えた、お母さんの思いとは……
綿平さんは、
「父と母、弟の冥福を祈るとき、同時に、私たちのような家族を増やさないよう、核兵器のない世界の実現を願う」
と語られました。
日本被団協がノーベル平和賞を受賞した時、綿平さんをはじめ、被爆者の皆さんの喜びはどれほど大きかったことでしょうか。
私自身は、祖母が長崎で被爆した被爆3世です。
ヒバクシャによる講話の実施を練馬区議会で長く求め続け、今回ついに実現しました。
それが8月6日という日に実現したことに、とても感慨深いものが。
語り終えた綿平さんに、会場から、心よりの拍手を送りました。
長年声を上げ続けてくださった被爆者練馬の会の皆さま、
そして調整に尽力してくださった練馬区職員の皆さまに、心より感謝申し上げます。
◆コンサート
チェリスト・長谷川陽子さんによる演奏。
バッハ『無伴奏チェロ組曲』は、クラシックの中でも最も好きな曲のひとつ。
低く優しいチェロの響きに聴き惚れました。
平和への祈りにふさわしい演奏だったと思います。
司会は、練馬区在住の田中千寿江さんが務められました。
戦後81年。
「脆い平和」を守るために、私たち一人ひとりが努力を続けなければならないと、改めて感じます。
私も、練馬区議会議員として、一人の大人として、ねりまの戦争体験を語り継ぎ、平和を守る努力を続けていきたいと思います。
今日の模様は、後日ホームページに掲載されます。動画も載るそうなので、ぜひ多くの方にご覧いただきたいと思います。
https://www.city.nerima.tokyo.jp/kusei/keihatsu/heiwa/heiwasuishin.html
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