2026/8/4
市内在住で視覚に障害のある方の文章。
ご本人の許可を得たのでご紹介します。
なお音声入力のため、
誤字等の変換間違えもありますが、
そのまま転載します。
改行はしました。ご了承ください。
* * * * *
## エッセイ
見えなくなって気づいた、
「まっすぐ」という言葉の嘘と【心の言語】
「この違和感は何だろう」と考えることが。
目が不自由になった私に、
通りすがりの人が親切に道を教えてくれるとき。
「ここを、まっすぐ行けばいいですよ」
そう言葉をかけていただくことがよくあります。
けれど、白杖(はくじょう)を頼りに
自分の感覚を研ぎ澄まして歩いてみると、
実際には
その道は少し斜めにずれていたり、
ゆるやかに右へカーブしていたり……。
「純粋な直線」なんて、
街の中にはほとんど存在しないのです。
教えてくれた方に悪気がないのは、
痛いほど分かっています。
見えている世界にいる人にとっての
「まっすぐ」は、「だいたい方向が
合っていれば直線」だからです。
でも、見えない世界にいる私にとっては、
一歩足を踏み外せば壁にぶつかったり、
車道に出てしまったりする命がけの空間です。
見えている世界の「まっすぐ」と、
見えない世界の「まっすぐ」。
同じ言葉を使っているのに、
受け取る景色も意味も、まったく違っている。
以前の私は、
こうした言葉と現実のギャップ
(違和感)を覚えるたびに、
どこか孤独で、毎日の生活の中に
小さな苦しさを感じていました。
◇
AIに「言葉とは何か」と尋ねたことがあります。
AIは「言葉があるからこそ見えている世界に
意味を与えられ、体験を共有できる。
世界を認識するためのもう一つのレンズです」
と答えてくれました。
確かにその通りかもしれません。
けれど、その前提には
いつも「見えている景色」が存在しています。
では、見えない世界に生きる私にとって、
言葉とは何なのだろう?
そう問い直し始めた最近、
私はあの「まっすぐ」という
言葉との付き合い方を変えました。
言葉をそのまま過剰に信じるのをやめたのです。
「おおよそあの方向に行けばいいんだな」
それくらいの感覚で言葉を受け取り、
あとは自分の身体感覚と白杖を信じる。
少し歩いては立ち止まり、
周囲の空気や音、足裏の感覚を探りながら、
ゆっくりと進む。
見えていた頃は何も考えずに歩けた道。
でも、今の歩みだからこそ、
言葉の奥にある「本当のコミュニケーション」
に気づくことができました。
◇
私には、大好きな時間の記憶があります。
一人旅の途中、
外国からの観光客と出会ったときのことです。
相手は日本語が話せず、私は英語が話せない。
けれど「道を教えたい」「自分の思いを伝えたい」
気持ちがあると、不思議な会話が始まります。
「Go straight! Desu!」
「Shop, Left side!」
英語とも日本語とも言えない
無茶苦茶な言葉遣いなのに、
お互いに知っている単語と
身振り手振りを総動員して、
一生懸命に伝え合おうとする。
その瞬間、空間が一気に温かくなり、
会話はどんどん盛り上がっていきます。
英語、フランス語、韓国語、日本語……
世界にはたくさんの言語があります。
けれど、国境や「見える・見えない」の
違いを軽々と超えていくのは、
完璧な文法や語彙ではありません。
「相手のことを思いやる」
「自分の言葉だけで一方的に喋らない」
「伝えたい、受け取りたいと願う」
それこそが、
人間が持っている一番素晴らしい言語――
【心の言語】なのだと思うのです。
旅先で出会ったあの人たちも、
「まっすぐ」と声をかけてくれた人も、
みんな【心の言語】を使って
私に手を差し伸べてくれていました。
母国語同士では言葉の「ズレ」に
傷つくこともあるけれど、
お互いに
「完全には伝わらないかもしれない」
と分かっているからこそ、
私たちは心を寄り添わせることができます。
言葉は、見えている景色の
単なる補足なのかもしれません。
でも、その言葉の裏側にある【心の言語】
こそが、人と人とを本当の意味でつないでくれる。
目が見えなくなったからこそ出会えた、
この温かい言葉。【心の言語】が、
世界中の共通語になっていけばいいなと、
今日も白杖を手に歩きながら願っています。

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