2026/5/27
巨人の阿部監督の逮捕・辞任が世間を賑わせています。
今回の件については、あくまで報道ベースでしか分からず、断定的に語るべきではないという前提で綴りたいと思います。
報道によれば、阿部監督が家庭内で長女とトラブルとなり、その後、長女がChatGPTに相談。児童相談所への相談を促され、児相から警察へ連携され、最終的に現行犯逮捕、そして辞任に至ったとされています。
これに対し、世間では、
「娘の行動は軽率だった」
「AI依存は危険」
「家族内の問題を大ごとにした」
といった論調が少なくありません。
しかし、私はこの流れに違和感を持ちます。
ここで述べたいのは、逮捕の是非や辞任の妥当性ではなく、「通報・相談そのものが誤りだった」と断定する風潮への疑問です。
もちろん、AIを過信・依存することは危険です。
最終判断をAIに委ねるべきではありませんし、AIはあくまで補助的なツールに過ぎません。
ただ、本件が本当に「AI依存の危険事例」なのでしょうか?
本人としても、ここまで大ごとになるとは想定しておらず、後悔している可能性は十分あると思います。
しかし、それと「通報自体が間違っていた」と第三者が断定することは別問題ではないでしょうか。
確かに、通報がなければ逮捕も辞任もなかったでしょう。
だからといって「隠しておくべきだった」「相談すべきではなかった」という方向へ話が進むことには強い違和感があります。
よく、救急車の適正利用を呼び掛けるPRがあります。
あれは、明らかに緊急性がないケースや、タクシー代わりの利用を控えるよう促すものであって、「119番を躊躇させる」ためのものではありません。
なぜなら、容体の重度・軽度を素人が正確に判断することは難しいからです。
だからこそ専門機関につなぎ、必要性を判断してもらいます。結果的に軽症だったとしても、それは「不適切利用」とはなりません。
児童相談所への相談も、本来はそれに近いものではないでしょうか。
通報とは、「虐待である」と断定する行為ではなく、「そうした可能性があるので専門機関に判断を仰ぐ」行為です。
今回の件でも、児相から警察へ引き継がれています。
もし、単なる家庭内のイザコザであり、完全に私的領域の問題と判断したのであれば、「民事不介入」として終わったはずです。
また、事件性が疑われたとしても、任意の事情聴取など別の対応もあり得ました。
しかし実際には、警察は現行犯逮捕が必要と判断しました。
強調しておきますが、逮捕=有罪ではありません。
逮捕の必要性や、その後の辞任、報道の過熱については別途議論があり得ます。
ただ少なくとも、「その程度のことで通報するな」「AIなんかを信じるからこうなる」といった論調は、この経過を見る限り的が外れているように思えます。
一方で、「逮捕され得るのだから通報すべきでなかった」という考え方であれば、それはそれで一つの価値観です。
ただ、それは裏を返せば、
「通報しなければ事件にならなかった」
「警察が介入しなければ“無かったこと”にできた」
という発想でもあります。
そこには、「家族内のことを外に出すべきではない」という、根強い価値観が含まれているように感じます。
もちろん、その価値観自体を全否定するつもりはありません。
家族関係への公権力介入には慎重さも必要でしょう。
ただ、現在の社会の流れは明らかに、DVや虐待について「家庭内の問題だから」で済ませない方向へ向かっています。
そして私は、その方向に進むべきだと考えています。
だからこそ懸念するのは、今回の件への世間の反応が、
「189に相談すると人生が壊れる」
「黙っていた方がいい」
「相談した側が悪い」
という空気につながってしまうことです。
救急車で言えば、
「軽症だったら叩かれるかもしれない」
という不安から、本当に必要な119番までためらわれるような状態に近いと思います。
「通報したから事件になった」
「黙っていればよかった」
という論調が強まることは、結果として、助けを必要としている人を萎縮させる危険を孕んでいます。
逮捕が妥当だったのか。
辞任は必要だったのか。
報道は過熱していなかったのか。
それらが議論されることは良いと思います。
しかし、それと「相談・通報そのものが適切だったか」は、切り分けて考える必要があるのではないでしょうか。
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