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47都道府県所在地が決まった正確な歴史 【都市伝説】に惑わされない知識の重要性(歴史家・評論家 八幡和郎)

2020/12/2

八幡 和郎

八幡 和郎

藩でなく旧国で決められた境界

「地方の衰退」と「東京集中」のなかでも、都道府県所在地のほとんどは元気だ。都道府県内で一人勝ちで国際的に見ても立派な都市としての風格も備えてきて、日本は47の都市連合のような風情になってきた。

ただ、よその都道府県所在地のことをあまり知らないことは残念だ。質の高い町づくりや県内の他都市との関係を考えるためにも、よその都道府県庁所在地も知りたい。

そこで、「日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕生の謎」 (光文社知恵の森文庫)という本で、経緯や都市の歴史、地形と都市開発の歩み、役所の庁舎の変遷などについて書いて、江戸時代・戦前・現在の重ね地図もつけた。

今回はその内容から、都道府県の領域や県庁所在地がどうして決まったのかということについて正確な経緯を紹介したい。なにしろ、この分野では、さまざまな都市伝説が流れていて、それを信じる人も多い。また、参議院選挙の二県合区など都道府県とは何かを考えたい時期でもある。

大政奉還のときには271諸侯がいて、全国の4分の3を支配し、残りが幕府、旗本、寺社などの領地だった。明治2年に版籍奉還が行われ、このとき、大名領を藩と呼ぶことになり(つまり江戸時代に藩は存在してなかった)、幕府領などを40ほどの府県にした。

そして、明治4年7月の廃藩置県で藩もすべて県として、3府302県が成立した。そして、11月には第一次府県統合が行われて、3府72県となり、こんどは、明治9年の第二次府県統合で3府36県になったが、不満も出たので富山県や奈良県などが独立し明治21年に47道府県の現状の形になった。

途中経過を無視して、最終的な仕上がりからどういう哲学で47都道府県の領域が決まったかというと、基本になったのは令制国(北海道、沖縄を除いて67か国だったが、明治になって陸奥・出羽を分割して72か国)であって、それを人口などを考えて併合したり分割し、さらに、微修正をした。旧藩は一切無視されている。

中位である24位の長崎県で74万人であり、上位は新潟、愛知が150万人超、下位は約30万人の北海道は別にすると、沖縄、鳥取、宮崎が約40万人だ。

 

城下町でなく幕府領の重要都市も多い

それでは、県庁所在地はどうして選ばれたかといえば、原則は県内最大藩の城下町が一番多いが、幕府領の重要都市も多い。というのは、藩と府県が併存した時期には、幕府領の重要都市が県庁所在地となり、周辺の幕府領や旗本領などを一括管理して新しい県庁のもとになるべき組織が形成されていたからだ。

列挙すると、最大藩の城下町は、北から盛岡、秋田、仙台、水戸、宇都宮、前橋、富山、金沢、福井、名古屋、津、和歌山、鳥取、松江、岡山、広島、山口(幕末に萩から山口に移転)、高松、徳島、松山、高知、福岡、佐賀、熊本、鹿児島だ。

幕府領の重要都市は、東京、横浜、新潟、甲府、静岡、大津、京都、大阪、神戸、奈良、長崎である。

それでは、最大の城下町と幕府領重要都市で迷ったらどうしたかといえば、地理的位置よりは、その都市が全国統治の上で重要なほうを選んだ。とくに、横浜、神戸、新潟、大津、長崎などはそういケースだ。治安維持の観点からも港町は重視されたのである。

そう言う意味で、はずされた、小田原、彦根、姫路などにとっては残念な気持ちが残った。

それ以外の例外で多いケースは、第一次府県合併のあとの3府72県体制から47道府県に移行する過程で、三つの県の真ん中の県庁所在地がとられたり、どちらでもない中間の都市が選ばれたケースだ。山形は酒田、山形、置賜の各県、福島は若松、福島、磐城のうち真ん中の県の県庁所在地だ。

千葉は印旛、木更津両県合併のときに中間にあった宿場町・門前町が選ばれ、宮崎は美々津、都城の中間に新都市を建設した。

それ以外を見ると、北海道は幕府領の中心地だった函館では南に偏りすぎていたので札幌を建設した。青森は南部藩領の北部を併合したのと、一時期、北海道の松前藩領も一緒だったので弘前藩の港町である青森となった。

埼玉県では、城下町の岩槻に県庁を置く予定だったが、適切な施設がなかったので、近くの宿場町の浦和に落ち着いた。

長野は信濃北部の幕府領をまとめた中野県が設立されたのだが、一揆が起きたので善光寺の門前町の長野に移った。そして、松本を県庁所在地とする筑摩県と合併した際には、松本か中間地域の上田が有力だったが、筑摩県庁舎が火災で焼失し、上田の人が放火したのでないかという噂で対立が深まり、長野が漁夫の利を得た。

岐阜は笠松に幕府領の美濃郡代があったが、ここから、伝統的な美濃の中心である尾張藩領の商業都市だった岐阜に移ったもの。那覇は琉球王国の首都である首里で、王国の重要施設を接収して県庁を置くことでのトラブルを避けたらしい。群馬県での高崎と前橋とか、栃木県での宇都宮と栃木の間では最終的な決着までのいろいろもめた。(別の回に都道府県の名前のことを書いて、そのときに、もう少し県庁所在地を巡る経緯も書くつもりだ)

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八幡 和郎

八幡 和郎

評論家、歴史家、徳島文理大学教授 滋賀県大津市出身。東京大学法学部を経て1975年通商産業省入省。入省後官費留学生としてフランス国立行政学院(ENA)留学。通産省大臣官房法令審査委員、通商政策局北西アジア課長、官房情報管理課長などを歴任し、1997年退官。2004年より徳島文理大学大学院教授。著書に『歴代総理の通信簿』(PHP文庫)『地方維新vs.土着権力 〈47都道府県〉政治地図』(文春新書)『吉田松陰名言集 思えば得るあり学べば為すあり』(宝島SUGOI文庫)など多数。

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