2017年は東京都議会議員選挙や衆議院解散総選挙がおこなわれ、たくさんの新しい政治家が誕生した一方で、政界で活躍した方々が多数亡くなっています。そこで、昨年亡くなった政治家をまとめてみました。
昨年は、総理大臣経験者や現職の国会議員など、数多くの政治家が亡くなった1年でした。
元衆議院議員で厚生大臣、大蔵大臣を歴任した林義郎氏は、多臓器不全のため、2月3日に満89歳で亡くなりました。葬儀(密葬)は築地本願寺で、本葬は海峡メッセ下関で営まれました。
安倍首相は弔辞で、「小選挙区候補の私を温かく支援していただいた。ご厚情を決して忘れてはいけないと胸に刻んでいる」と小選挙区比例代表並立制の導入で安倍氏、河村建夫氏に小選挙区を譲り、比例代表に回った林氏に感謝を述べました。ちなみに林氏の長男である林芳正氏は山口県選出の参議院議員で、現在文部科学大臣を務めています。
林義郎氏は1927年6月16日、山口県下関市生まれ。1950年に東京大学法学部を卒業後、通産省に入省。通産大臣秘書官、通産省重工業局産業機械課長を歴任した後、1969年に同省を退官しました。
政治家となったのは、1969年の衆議院議員選挙で、旧山口1区から自民党公認候補として立候補し初当選します。以後、連続11期の当選を果たしました。1982年の第1次中曽根内閣では、厚生大臣に就任。1989年の自民党総裁選挙に立候補しています。
1992年の宮沢改造内閣では、大蔵大臣に就任します。2003年の衆議院議員選挙には立候補せず、政界を引退しました。
元環境大臣政務官の白石徹氏は、悪性リンパ腫のため、3月17日に満60歳で亡くなりました。現職国会議員のままの逝去されました。
葬儀は近親者で執り行われ、「白石徹を偲ぶ会」が麻生太郎副総理を委員長として、ベルモニー会館坂井で営まれました。
白石徹氏は1956年4月1日、愛媛県新居浜市生まれ。1978年に早稲田大学理工学部工業経営学科、1980年に早稲田大学理工学部工業経営学科を卒業。実家の建設会社社長、日本青年会議所副会頭などを務めました。
1999年の愛媛県議会議員選挙で初当選し、以後3期連続当選を果たしました。
2009年の衆議院議員選挙では、愛媛3区から自民党公認候補として立候補するも落選。2012年の衆議院議員選挙では初当選を果たします。2014年の衆議院議員選挙で再選しています。
白石氏の弔い選挙となった先の衆院選ですが、次男の寛樹氏は自身のスキャンダルなどもあり議席を守りきれず、愛媛3区は希望の党の白石洋一氏が当選しました。
元国家公安委員長の岡崎トミ子氏は、肝機能障害のため、3月19日に満73歳で亡くなりました。葬儀は近親者で執り行われ、「お別れの会」が仙台市の勝山館で営まれました。
岡崎トミ子氏は1944年2月16日、福島県福島市生まれ。福島県立福島女子高等学校を卒業後、1962年にラジオ福島に入社します。アナウンサーを経て、1967年に東北放送へ移籍。教養・娯楽番組、特別番組を担当し、東北放送労働組合の副委員長を務めました。
1990年に同社を退職して、「マドンナ旋風」と呼ばれた、土井たか子委員長の元社会党が大幅に議席を伸ばした同年の衆議院議員選挙で、旧宮城1区から社会党公認候補として立候補し、初当選しました。1993年の衆議院議員選挙で再選しました。
1994年の村山内閣では、文部政務次官に就任します。1996年の衆議院議員選挙で落選後は、参議院宮城県選挙区補欠選挙に立候補し当選します。2001年の参議院議員選挙で再選。2004年には民主党副代表に就任します。2007年の参議院議員選挙で3選を果たしました。2010年の菅改造内閣では、国家公安委員会委員長・内閣府特命担当大臣に就任していました。
元法務大臣の中井洽氏は、胃がんのため、4月22日に満74歳で亡くなりました。葬儀は近親者で執り行われました。
中井洽氏は1942年6月10日、満州国新京市(現在の中国吉林省長春市)生まれ。慶應義塾大学経済学部を卒業後、1963年に父で社会党衆議院議員だった中井徳次郎氏の秘書となります。1972年に父とともに社会党を離党。1975年には民社党に入党します。
1976年の衆議院議員選挙で初当選を果たし、以後衆議院議員を11期務めました。1994年には羽田内閣で法務大臣に就任。同年、新進党に参加。新進党国会対策委員会筆頭副委員長。衆議院議院運営委員会理事を歴任します。
1997年には自由党に参加しました。党常任幹事、広報委員長、組織委員長を歴任。2002年に自由党副党首に就任し、2003年には民主党に合流しました。2003年には民主党副代表に就任。その後党拉致問題対策委員長、党常任幹事会議長を歴任しました。政権交代後の2009年には国家公安委員会委員長兼拉致問題担当大臣に就任。2010年には防災担当大臣に就任しました。
民主党内では保守派として知られ、拉致問題担当大臣就任時には「対話と圧力というより、圧力と圧力」と発言しています。
元財務大臣の与謝野馨氏は、肺炎のため、5月21日に満78歳で亡くなりました。葬儀(密葬)は近親者で執り行われ、自民党と与謝野家合同の「お別れの会」が東京青山葬儀所で営まれました。
与謝野氏は1938年8月22日、東京都千代田区生まれ。歌人の与謝野鉄幹・晶子夫妻は父方の祖父母にあたります。1963年に東京大学法学部を卒業後、日本原子力発電に入社します。1968年に同社を退職し、中曽根康弘事務所に入所しました。
1976年の衆議院議員選挙で、旧東京1区から自民党公認候補として立候補し、得票数53,034票を得て初当選します。以後、衆議院議員を10期務めました。1994年には文部大臣、1998年には通産大臣を歴任。2004年には自民党政務調査会長に就任し、小泉首相の「郵政民営化」の党内取りまとめに当たりました。
2005年には経済財政政策・金融担当大臣、2007年には内閣官房長官、2008年には経済財政政策・規制改革担当大臣2009年には財務大臣兼経済財政政策・金融担当大臣と、政府の要職を歴任してきました。2010年には、「たちあがれ日本」共同代表に就任したものの、翌年の菅第2次改造内閣で経済財政担当大臣に就任にともなって「たちあがれ日本」を離党しました。2012年に病気のため政界を引退。 亡くなる直前の4月30日に自民党に復党していました。
政界きっての趣味人として知られ、写真、囲碁、ゴルフ、パソコンの自作などが得意でそれぞれプロ並みの腕前だったことが知られています。
元沖縄県知事の大田昌秀氏は、肺炎と呼吸不全のため、6月12日に満92歳で亡くなりました。葬儀は沖縄県のいなんせ会館で営まれました。
大田昌秀氏は1925年6月12日、沖縄県島尻郡具志川村生まれ。壮絶な地上戦となった沖縄戦では鉄血勤皇隊(少年兵部隊)に動員された経験を持ちます。1954年に早稲田大学教育学部英文学科を卒業。1956年に米シラキュース大学大学院を修了しています。1963年には東京大学新聞研究所で研究生活を送りました。1968年には琉球大学法文学部教授に就任しました。1978年には米アリゾナ州立大学教授に就任しています。
琉球大学を退官した後、1990年の沖縄県知事選挙で、初当選を果たし、1994年に再選。2001年の参議院議員選挙では、社民党公認候補として比例区から立候補し初当選します。2007年の参議院議員選挙には立候補せず、政界を引退しました。
1995年の米兵による少女暴行事件および軍用地の代理署名の拒否をきっかけに全国的に有名になりました。日米両政府が合意した米軍普天間飛行場の県内移設に反対の立場を貫き、亡くなる直前の2017年にはノーベル平和賞にノミネートされていました。
元総理大臣補佐官の木村太郎氏は、すい臓がんのため、7月25日に満52歳で亡くなりました。葬儀は近親者で執り行われ、自民党と木村家などとの合同で「お別れの会」がスポーツプラザ藤崎で営まれました。
木村太郎氏は1965年7月20日、青森県南津軽郡藤崎町生まれ。衆議院議員の木村文男氏を祖父に、衆議院議員、青森県知事を歴任した木村守男氏を父に持つ政治家一家に育ち、東洋大学法学部法律学科を卒業後、三塚博衆議院議員の秘書になりました。
1991年の青森県議会議員選挙で、初当選を果たし、1995年には再選。1996年の衆議院議員総選挙では、青森4区から新進党公認候補として立候補し初当選します。以後、衆議院議員を7期務めました。1997年の新進党解党後は改革クラブを経て自民党に入党。2002年には防衛庁長官政務官、2003年には農林水産大臣政務官を歴任。2005年には防衛庁副長官、2008年には自民党副幹事長、2011年には自民党筆頭副幹事長に就任します。2012年の第2次安倍内閣では、内閣総理大臣補佐官に就任しました。
現職で亡くなった木村太郎氏に代わり、先の総選挙では実弟の木村次郎氏が地盤を引き継ぎ当選しました。
元衆議院議員の長島忠美氏は、多臓器不全のため、8月18日に満66歳で亡くなりました。
葬儀・告別式は近親者で執り行われ、「お別れの会」が10月30日に二階俊博自民党幹事長を実行委員長として、ホテルニューオータニ長岡で営まれました。
二階幹事長は弔辞で、「全村避難後、国交省が5年でも無理といった帰村を3年半で成し遂げた。なにより命を大事にしていた。これから知識、経験を生かして活躍するはずだったのに残念でならない」と語りました。
長島氏は1951年1月9日、新潟県古志郡山古志村の生まれで享年66歳。東洋大学を卒業後都内で就職するも、家業の農業・畜産業を継ぐために山古志村に帰郷します。1990年には山古志村教育委員に就任しています。政治家となったのは、1993年の山古志村議会議員選挙で、初当選を果たします。2期目の任期途中で村議を辞任。2000年の山古志村長選挙に立候補し当選します。
2004年の新潟県中越地震では、山古志村が甚大な被害に。村長として住民の避難や復興に尽力した長島氏に対し、その手腕を評価した小泉純一郎首相(当時)に国政への進出を請われました。2005年の第44回衆議院議員総選挙では、自民党公認候補として比例北陸信越ブロック単独で立候補し初当選します。その後は4回当選し、復興副大臣にも就任しました。
第80代・内閣総理大臣を務めた羽田孜氏は、老衰のため、8月28日に満82歳で亡くなりました。葬儀は民進党と羽田家の合同で、青山葬儀所で営まれました。
当時民進党の代表だった前原誠司氏は「羽田氏は政治改革、二大政党制の実現へ情熱を傾けた。政治家としてぶれない姿勢だった」と語りました。
羽田孜氏は1935年8月24日、東京府東京市蒲田区(現大田区蒲田)生まれ。1958年に成城大学経済学部を卒業後、小田急バスに入社。父の病気を期に後援会から政界入りを打診され、1968年に小田急バスを退職しました。
1969年の衆議院議員選挙で、旧長野2区から自民党公認候補として立候補し、得票数73,325票を得てトップ当選します。その後、衆議院議員として14期連続当選を果たしました。1985年には中曽根内閣で農林水産大臣、1988年には竹下内閣で再び農林水産大臣、1991年には宮沢内閣で大蔵大臣に就任。
1993年には自民党を離党し、新生党を結成。党首に就任しました。政権交替後の1993年には細川内閣で副総理兼外務大臣として入閣。1994年には新生党党首として、第80代内閣総理大臣に指名されます。しかし、在職期間が64日という、現行憲法下では最短の短命内閣でした。
1998年の民主党結成時には、羽田氏は初代幹事長に就任。2002年・2009年には民主党最高顧問に就任します。2012年の衆議院解散をもって、政界を引退しました。
元環境庁長官の桜井新氏は、肝臓がんのため、11月9日に満84歳で亡くなりました。葬儀は近親者で執り行われ、後日「お別れの会」が予定されています。
桜井新氏は1933年4月8日、新潟県南魚沼郡大和町生まれ。早稲田大学第一理工学部を卒業。早稲田大学在学中から、田中角栄氏の書生を務めました。
1971年の新潟県議会議員選挙で、初当選。以後、県議を2期務めます。1980年の衆院選では、旧新潟3区から無所属で立候補し初当選します。その後、自民党に入党し、以後連続6期当選を果たしました。1994年には村山内閣で環境庁長官に就任。2000年の衆院選で落選後、2001年の参議院議員選挙に比例区で立候補し、得票数218,597票を得て当選します。2007年の参院選には立候補せず、政界を引退しました。
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