日本が沖縄を守ろうとしたのは「歴史の捏造」ではない
参政党神谷代表の見解が、5月13日沖縄タイムス朝刊1面に掲載されました。
見出しはセンセーショナルですが、実際には、以下のとおり、一部軍人による例外的事例があったことは認めた上、多くの軍人は沖縄県民を守るために戦ったということを発言しています。
「日本軍の一部軍人による島民の殺害があったことは承知している。ただし、それは例外的な事例であり、多くの軍人は沖縄県民を守るために戦った。その事実を主に伝えた上で、一部の問題行動に触れるなら理解できるが、加害の側面を主に取り上げる伝え方には違和感を覚える。むしろ、甚大な被害を与えたのは、米軍による艦砲射撃や空襲であった。沖縄を守った人々の名誉を正当に評価することが、日本の政治家の責任だと考えている。」
「日本軍は県民を殺していない」 沖縄戦を巡り参政党・神谷代表 自民・西田氏の発言に同調 青森で街頭演説(沖縄タイムスウェブサイト)
これに対し、「歴史の捏造」として批判する記事もあります。
「『守ろうとしたのは天皇制存続で住民ではなかった』とし、神谷氏発言に「歴史認識の違いではなく歴史の捏造(ねつぞう)だ」と危機感を募らせた。」「神谷氏の『日本の人たちが全国から行って沖縄を守ろうとした』との発言に『そもそも前提が違う。沖縄戦は本土決戦のための持久戦、捨て石作戦。玉砕の考えで県民を巻き込んでいった』と説く。」
神谷氏発言「歴史を捏造」 沖縄戦研究者の石原・川満さん(沖縄タイムスウェブサイト)
私も、日本軍の多くは、沖縄を守る目的で行動していたと考えています。
そのうえで重要な事実が、島民の「疎開」(戦闘に巻き込まれにくい場所へ避難させること)です。
まず、第1段階の疎開として、沖縄戦が始まる前年7月の段階で、政府は10万人の疎開を決定し、実際に約7万人が疎開しています。途中米軍による攻撃で沈没させられた対馬丸の悲劇もありますが、悪いのは米軍であって疎開を決定した政府ではありません。戦争開始より半年以上前に行われた島民の疎開は、非難されるべき出来事でしょうか。
何のために島民の疎開がなされたのでしょうか。住民を殺したり住民を戦争に巻き込むためなら、疎開させなければよいはずではないですか。
「政府は昭和19(1944)年7月7日の緊急閣議により南西諸島から老幼婦女と学童を九州へ8万人、台湾へ2万人、計10万人を疎開させる計画を決定した。実際には、九州各県及び台湾へ約7万人が疎開したといわれている。」(総務省ウェブサイト)
「惨烈な戦闘を予期する南西諸島、なかんずく沖縄島の住民を、事前に安全地帯に疎開させることは、同胞の災厄を極限する主旨においても、また軍作戦上の要求より考えても、絶対の緊要事であった。」「結局戦闘開始までに、島外に疎開した数は、沖縄本島約十万、八重山群島約三万で、大東島の住民はほとんど全部疎開を終わった。」(八原博通「沖縄決戦 高級参謀の手記」中公文庫、99~100頁)
次に、第2段階の疎開として、3月26日の戦闘開始前に、島の北部への島内疎開が実施されました。その数約3万~5万とされています。陸軍の軍司令官が軍の指示で島民の疎開を援助しており、八原高級参謀もまた、県知事や警察と協議して12月の段階でも疎開の必要を力説して北部への疎開を促しています。戦闘に住民を巻き込まないよう、知事や警察も疎開に協力したと書かれています。
「第32軍と県は協議の上、党内疎開の要項が決まった。60歳以上の高齢者と国民学校以下の児童を3月下旬までに疎開させ、軍は北に行く空いた車や船で疎開を援助する。その他の非戦闘員は、戦闘開始必至と判断する時機に軍の指示により一挙に北部へ移すことになった。しかし、予測したよりも米軍の進攻が早く、3月中旬までに当初見込みの3分の1の約3万人が島内疎開したに過ぎなかった。」(将口泰浩「市党の沖縄戦 米軍を震え上がらせた陸軍大将牛島満」光人社NF文庫、153頁)
「12月中旬、沖縄ホテルで警備要領について協議会が開催された。軍の代表として出席した私は参集した県知事以下官民有力者に、率直に軍の意図するところを説明した。(略)来年3、4月の候には乾坤一擲の大激戦が、わが沖縄島上に展開するのは必定である。戦闘の中心地は島の南半部と予想される。その戦いの激烈さは、おそらく各位の目撃された先の10月10日の空襲の際の、那覇埠頭地区の如く、地上一切のものは、敵の砲爆で吹き飛んでしまうだろう。我々は目前の困難や、不便に逡巡せず、心を鬼にしこの計画を断行しなければならぬ。もし躊躇回避すれば、戦いが始まった後、島民は砲爆の中を彷徨し、地獄の苦しみを嘗めるようになる。」「県首脳部、殊に島田知事や荒井警察部長らの努力は実に真剣であった。しかし目前の安きに馴れて島民は容易に動かなかった。(略)とにかく関係機関の努力と、空襲頻度増大による脅威に、動かされ遅々ながら、疎開は進んでいった」「かくして戦闘勃発までに疎開した数は3万5千、その後1週間内に計画第4項に基づき北部に移動した者約5万とみこんだ。予定総数の3分の1に過ぎない。」(前掲八原博通書籍・102~103頁)
最後に、大田実海軍少将は、沖縄県民の献身的協力に感謝する電報を発しています。
「沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部あてに依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にもかかわらず、私が知る限り、県民は青年壮年が全員残らず防衛のための招集に進んで応募した。(中略)沖縄県民はこのように立派に戦い抜いた。県民に対し、後世、特別のご配慮をしていただくことを願う」(前掲将口泰浩書籍・220~223頁)
私は、これらの文献にあるように、日本の政府や軍が、戦闘が始まるまでは、沖縄県民を極力戦闘に巻き込まないよう疎開を促して実施し、戦闘開始後は、軍は、米軍との激烈な戦闘により、防衛戦に専念せざるを得ず、県民のことはほとんど顧みることができなかったが、日本を守る戦いに献身的に協力した島民が多かったというのが、大きな流れではないかと思います。
もちろん、防衛作戦の巧拙や、神谷代表の指摘するような例外的な事例が生じたことは否定できません。
しかし、当時の政府や日本軍の多くが沖縄のために行動し、「多くの軍人は沖縄県民を守るために戦った」ことは真実だと思います。
これを、「歴史の捏造」と評価するのは、島民疎開の事実などに照らしても、言葉が重すぎるのではないかと思います。