ハラダ ユタカ/46歳/男
| 生年月日 | 1980年01月24日 |
|---|---|
| 年齢 | 46歳 |
| 星座 | みずがめ座 |
| 出身地 | 福岡県出身の父と鹿児島県出身の母を持ち、九州の血が流れている。 幼少期に父の転勤で出身地である東京都国分寺市へ移住。 31歳だった2012年に石巻市へ移住し、復旧や復興に伴走したいと考え定住。 |
| 好きな食べ物 | 宮城のお米が大好きです! 東京で暮らしていた頃はお米の良し悪しは気にならなかった。。。 精米したばかりのお米が、こんなにも香り高く美味しかったなんて知りませんでした。 なので、副食はご飯に合うおかずが大好きです。 納豆、卵かけご飯、たらこ、もつ煮、中華料理全般、おくずかけ等 でも、最後の晩餐に選ぶとしたら頻繁には食べられませんが… 鰻の蒲焼一択となります! |
| 好きな本、漫画、雑誌 | 議員になってからは議案書ばかり目を通しているので、本はあまり読まなくなってしまいましたが、幕末の時代が好きなので司馬遼太郎さんの本は好んで読んでいた時期があります。 漫画はなんでも読みますが最近はアプリで読むことが主流になってしまって、関わり方が変わってきた気がしていて、好きな漫画雑誌に掲載される続編が気になることも無くなってしまい少し寂しい気もします。 |
石巻市で団体を設立し釜・大街道地区で在宅被災者への支援活動を展開する中で、支援者として地域に伴走し側面的な支援を行なっていた際に行政との壁を幾度となく感じるようになっていました。
何を言うかよりも、誰が言うか
被災地では困り事の穴や隙間を支援で埋めても、また新たな困りごとが出てきてしまう複雑な構造があった。しかし、声を拾い届けても問題視しない人が多くいることに苦悩していました。
震災から8年が経過したときに、自分の身の振り方を考える機会があり、1,000年に一度と言われる東日本大震災の復興を最後までも届けたいという想いが勝り石巻に定住する事に決めました。
その際にふと、自分は復興を人任せにしていたのではないだろうか?
自責の念が生まれ、これまで支援者として支える側だった私の立場や考え方が一変しました。
それまでの復旧や復興の手法に対して違和感を覚えていたこともあり、石巻の復興を自分事として捉え牽引していきたい想いが芽生えてきたのです。
地域の声を拾う自分の声に力を持たせたい!それが私の政治家を志したきっかけです。
HPからは原田ゆたかの活動報告やSNSヘのリンクなどをご覧いただけます。
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幼い頃より自動車が大好きであったため国家資格自動車整備士を持ち、東京都国分寺市で個人事業主として自動車の販売整備業を営んでいたが、東日本大震災後2011年4月1日から宮城県石巻市で災害支援活動に従事し、瓦礫撤去や泥出しを中心に活動を行なった。
自分を含めて個人で参加する災害ボランティアが集い、支援チームを設立し代表に就任。
1年間で約3,000件のニーズに対応し延べ20,000人以上の復旧作業コーディネートを実施した。
2012年になると釜。大街道地区の在宅被災者への支援が不足していると感じ一般社団法人BIG UP石巻を設立し代表理事に就任。公民館や会館なども被災していたため、企業からの寄付や民間の助成を受けて街の駅「コスモスの家」「たんぽぽの家」2ヶ所のコミュニティスペースを設置した。県外からの支援者を受け入れ、様々な行事を提供し、人と情報が集まる支援拠点として運用するが、ここで誤算が生じる。
自動車学校の跡地に設置したコスモスの家には地域の大人のみならず、子どもたちが集まるようになっていった。子どもとつながると地域活動にリーチしにくい子育て世代とのつながりを作ることができ、子どもを通じて地域の力を育むために子ども子育て支援を開始。放課後や休日になると子どもたちが自然と集う居場所となった。
2016年からは子ども食堂を開始し現在も月に一度のペースで開催している。
初期メンバーは高校生だったり成人を迎え、運営スタッフとして今も関わってくれている。
災害がきっかけで設立した団体でもあり、能登半島地震までの14年の期間で14箇所の被災地で活動を展開し、防災や減災に関しては一般の方に比べ見識が深いという自負はある。子ども子育てに関しては支援団体として従事していることもあるが、広告の仕事をしていた時期もありプロモーションであったり、災害支援を通じての建築関係、野球経験からのスポーツ振興など、幅広い分野でのバックグラウンドを持つため、様々な事業で深い議論を行う市政の場では重宝される人材であると言えます。