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大西 つねき ブログ

戦争の悲惨さを伝えても、戦争はなくならない今年で戦後80年。

2025/7/31

戦争の悲惨さを伝えても、戦争はなくならない

今年で戦後80年。終戦の日が近づくにつれて、戦争体験者がどんどん少なくなる中、戦争体験を語ってもらい、その悲惨をリアリティを持って伝え、戦争をなくそうとする報道や作品が増えると思われる。

その気持ちは多分善意であり、決してそれを踏みにじるつもりはないし、多くの人が同じ気持ちであることもわかっている。だからこそ、敢えて多くの人に嫌われることを承知で言っておきたいことがある。

それは、戦争の悲惨さをいくら伝えても、戦争は絶対になくならないということだ。なぜなら、そんなことは、人類は百も承知だからだ。

人類が戦争を繰り返すのは、決して命の大切さを忘れているからではない。むしろそれが利用されるからだ。政府は必ずその正当性を主張し、それが国民を守ることと称して戦争に向かう。そして、戦争によって利益を得る人々が、その利益を投資し、戦争やむなしのキャンペーンを打ち、多くの国民が良かれと思って賛同するか、公に反対できなくなることによって戦争が起きる。

反対できなくなる理由はシンプルだ。国を守る、みんなの命を守るという大義を振りかざされれば、守らなくていい、死んでも構わないとは言えないからだ。

かくして、命が大切なことはみんなが知りながら、それを失わせる構造的欠陥の中で、それを見えなくする多くの国民の感情的な声が、冷静にその構造を見抜いて諌める声をかき消し、一筋の平和への道を断つのである。

解決策は、戦争の悲惨さを伝えることではない。むしろそれが逆効果の可能性すらある。確かに、多くの人がそのリアルを知らず、想像力も欠如する中、それを伝えることの大切さもあるかもしれない。だが、もし多くに人がただそれに浸り、ステレオタイプな愛や平和、命の大切さという概念を盲信すれば、それを守るというプロパガンダに簡単に騙される。また、悲惨な戦争に恐怖しすぎれば、それもプロパガンダの格好の餌食だ。

大事なことは、とにかく冷静になることだ。そうすれば、誰かがいくらあなたの感情を煽ろうとしても、起きたことに対して、それが遠い過去だろうが近い過去だろうが、例え多くの命が失われようと、それを冷静に受け止め、反応せず、その根本の原因を探り、構造を見抜き、さらに本質を突き詰めれば、操られることはない。

本質とは、人は必ず死ぬということ。だから、究極的には誰も守れないということ。仮に守ったとしても、短期的に死期を延ばすだけ、ということだ。
 
だからと言って、命を守らなくていい、ないがしろにしていいということではない。大事だからこそ、大事にしすぎないこと。まさに、アメリカの先住民のホピ族の長老が言っている通り、「命を大事にしすぎるほど、愚かなことはない。冒険が始まらない。」ということだ。

今、日本を守るために軍備増強や核武装まで唱える人たちが出てきている。

気持ちはわからなくもない。愛する人たちを守りたいと思うのは当然かもしれない。だが、それは本当の愛なのだろうか?強く愛せば愛すほど、それ以外との境界が際立ち、対立は激化する。愛するものを奪われれば憎しみが生まれ、それが深ければ深いほど連鎖する。それは本当に愛なのか、それとも執着なのか?

もし真の愛があるとするなら、私は、それは境界のないものだと思っている。だから、真の愛は何も何からも守ろうとはしない。ただ分け隔てなく全てがあり、全てを受け入れるのみだ。

だから、私は、最強の安全保障は、武力で守ろうとしないことだと思っている。もちろん、こんな考えが万人に受け入れられると思っていないし、無責任だとの批判を受ける
かもしれない。私自身、怖くないと言えば嘘になる。なぜなら、多くの同胞の命を危険に晒すことになるからだ。

だが、逆に武器を持つことが、人々の命を危険に晒さないかと問われれば、それもわからない話だ。いずれにしても、これは覚悟と選択の問題である。限られた自分の命を何に使うか、覚悟して選択するしかないということだ。

何年か前、私は『丸腰宣言書』という文章を携えて「丸腰宣言ツアー」という全国行脚を行なっていた。言っていたことは正にそのこと、日本が憲法9条通りに武器を手放し、アメリカ、中国、ロシアという超大国のど真ん中で非武装中立を貫けば、それが世界平和の礎を築くという考えだ。

荒唐無稽に聞こえるかもしれないが、私は何故だか、政治活動を始めた14年前から、その考えに取り憑かれ続けている。それが正しいとか正しくないとか、そんなことはわからない。ただ、この時代に生まれた一人の日本人として、それが自分の命の使い途として相応しいと思っているだけのことだ。

ただ、正直に言うと、私だって怖くないと言えば嘘になる。無責任と思われるかもしれないが、誰だってそうだと思う。誰も何も保障できるはずがない。だから、みんなの勇気が必要で、丸腰ツアーは、みんなの小さな勇気を集めて、大きな希望にするための活動だった。

とは言え、私など所詮、誰にも相手にされず、選挙にも一度も選ばれたことのない無力な「自称」政治家だ。そんな奴が何を言っても、信じる人は少ない。だが、もし日本にそのような大きな使命があるとすれば、その考えのかけらは、多くの日本人の心の中に眠ってはずだ。信じるべきは、その自分の心である。

私はたまたま、この「イカれた」考えに取り憑かれ、14年間無力なまま足掻き続けただけの人間だ。そのまま相手にされずに終わったとしても、本人的には何の問題もない。だが、もし多くの人の心の中に眠っている「かけら」が呼び覚まされないまま終わったとすると、それはとても残念なことだ。

そして今、正に我々は、その瀬戸際に立っているように見える。

今年で戦後80年、昭和100年。我々の中に眠っていた龍が再び動き出すか、このまま眠ったまま終わるのか。

その鍵は、我々の覚悟にある。どう生きて、死ぬかを自分で決めて、誰が何と言おうとそれを貫く覚悟。それを宣言しているのがこの丸腰宣言書で、それがいまだに最も欠けているということは、「武器」を「ワクチン」に読み替えれば、完全に新型コロナ騒ぎと一致するということでよくわかる。

そんな状況の中、この参議院選挙の結果を踏まえて、これから起こることもある程度見える中で、改めて宣言書を読み、自分に今、何ができるかを考えている。

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丸腰宣言

一、私はいずれ来る死を受け入れ、それをいたずらに遠ざけようとして生きるのではなく、限られた生をなるべく自然に、自由に生きたいと願う。その間に得られるものは体験のみであり、それを余すことなく受け入れ、永遠に続くかもしれない自らの精神の糧とする。 

一、個人の自由は普遍の真理であり、現行憲法にも規定されているが、憲法によって与えられているわけではない。仮に憲法が個人の自由を制限したとしても、それが真理を無効にすることはなく、私は真理に従って行動する。 

一、私は、生存本能に基づく個人レベルの自衛行為は、本人の自由意志による限り否定しないが、国家による武器を用いた自衛は全く別のものと考える。それは国家や国防、抑止力という虚構の概念に基づく集団破壊行為であり、武器は決して誰も守らない。むしろ、恐怖や猜疑心を増幅し、集団心理を暴走させ、それがさらなる悲劇を引き起こす。そして何よりも、自身の自由意志に反した、外部からの強制による破壊や殺人は、自らの精神を穢すものであり、それには従わない。 

一、私は日本が日米安保条約を含め、全ての軍事同盟を解消し、憲法9条を忠実に体現するために、自衛の軍隊も含む全ての軍備を廃棄し、丸腰で世界に対峙することを支持する。もちろんそれが自分も含め、身内や多くの同胞の命を危険に晒すことは承知しているが、これは私個人の信念であり、誰にも奪えない。同じように他の人の信念も奪えない。しかし、もし多くの同胞が同じ信念を自ら持てば、それが国の信念となり、それが世界の精神性を引き上げ、いつしか世界の信念となるだろう。その時には、敵はもういない。そんな未来を見るために、少なくとも自分の命は、十分賭ける価値がある。そう考えて本宣言に署名し、その第一歩を勇気と誇りを持って踏み出すものとする。

以上

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著者

大西 つねき

大西 つねき

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