2025/10/30
インターネットには多くの偽情報があふれている
東日本大震災では、Twitterが情報インフラとしての強さを見せた。
停電や通信途絶の中でも、人々は生の情報を共有し合い、助け合った。
いくつかのデマもなかったわけではないが、当時のTwitterは確かに社会の神経系として機能していた。
しかし、いまのX(旧Twitter)を見ていると、同じ役割を果たせるかは疑問だ。
悪貨が良貨を駆逐してしまった。
信頼よりも反応が優先され、共感よりも敵意が可視化される。
かつて人をつなげたプラットフォームが、いまや人を分断する装置になりつつある。
自由は無制限に自由である。しかし、その自由には責任が伴う。
この二つを同時に語れるかどうかが、成熟した社会の分かれ道だ。
地方議員としてSNSを使っていると、時に驚くようなデマに出会う。
たとえば、選挙ポスターに蓄光塗料を使ったという事実をきっかけに、「選挙違反ではないか」といった投稿が広がった。
さらには「学校から塗料を盗んだのでは」といった荒唐無稽な話まで派生した。もちろん事実ではない。
それでも、「デマを禁止せよ」とは言えない。
国家や行政が「これは嘘だから発信してはいけない」と線を引くことはできないし、してはならない。
それを認めれば、政権の都合で都合の悪い意見をデマとして排除できてしまう。
だからこそ、デマもまた表現の自由のうちにある。
だが同時に、誤りを放置してよいわけではない。
デマはデマと指摘するべきだ。しかし、国家権力がデマを禁じることはダメだ。
この線引きこそ、自由を成熟させるための知恵だと思う。
自由には必ず責任が伴う。
それは制限という意味ではなく、自由を持続させるための条件だ。
他人の名誉や人権を傷つければ、法が介入し、社会が反応する。
司法がそこに関与するのは、自由を奪うためではなく、自由を守るためである。
責任を引き受ける覚悟がなければ、自由はやがて他人を踏みにじる暴力に変わる。
SNSでは、発信のコストは限りなく低いが、訂正や反論のコストは高い。
数秒の投稿が、誰かの人生や評判を容易に傷つける。
しかも多くの場合、それは悪意ではなく正義感から生まれる。
正しいことをしていると信じて、他人の自由を奪ってしまう。
現代のデマ拡散の怖さは、そこにある。
デマを流す人の多くは、意図的な悪人ではない。
中には、社会を良くしたい、不正を正したいという気持ちから発信している人もいる。
しかし、やがて事実よりも反応が目的化していく。
嘘であれ、デタラメであれ、社会に影響を与えることや反応があることで、
自分が存在していると感じられる。
それが一時的な自己肯定感につながるのだ。
さらには収益化だ。
デマや過激な言葉が拡散されるほど、広告収入が増える仕組みになっている。
その構造が、発信者の承認欲求と経済的動機を同時に刺激している。
SNSはこの心理を強化する仕組みを持っている。
いいねやリポストの数字が、まるで評価の証のように目に見える。
注目されることが正しいことだと錯覚してしまうのは、自然な流れかもしれない。
しかし、その結果、言葉が議論の道具ではなく、承認を得るための手段に変わってしまう。
これがデマッター社会の根っこにある構造だと思う。
こうした現象は、ネットの外にも広がっている。
政治そのものが、似たような構造を抱え始めているのだ。
政治は本来、意見の異なる人々が議論を通じて合意点を探す営みである。
だが、SNS上では「敵か味方か」という単純な図式が支配し、政治が居場所の象徴になってしまっている。
ある候補を支持することが意見ではなく、自分が仲間である証になる。
批判も称賛も、政策論ではなく感情の共有で終わる。
政治が居場所事業になれば、言葉は空洞化する。
政策よりも推しの物語が優先され、議論よりも同調が求められる。
その空間では、デマであっても共感できる物語であれば拍手が集まる。
つまり、デマは居場所を維持するための燃料になっているのだ。
そして政治家自身も、その構造に引きずられる。
発信のたびに「どの層が喜ぶか」「誰が叩くか」を意識し、言葉が自己検閲される。
積み重なれば、政治言語そのものが変わってしまう。
この現象を私は、「政治の居場所化」と呼んでいる。
デマや誤解には、できる限り事実で応じるべきだ。
それは個人の名誉を守るためだけではなく、社会全体の信頼を保つためでもある。
沈黙すれば、嘘が事実として定着してしまう。
だからこそ、抵抗することは戦うことではなく、対話を取り戻すことだと考えたい。
デマを禁止するのではなく、デマを恥ずかしいと感じる社会をつくる。
誠実さを称え、不誠実を軽蔑する。
そうした空気が広がれば、デマは自然に力を失う。
批判や風刺は自由だ。しかし、虚偽と印象操作には線を引く。
それは対立を煽るためではなく、自由な言論を維持するための最低限の姿勢である。
自由は無制限に自由だが、その自由には責任が伴う。
責任を果たすことでしか、自由は持続しない。
そして責任とは、罰ではなく、自分の言葉と向き合う覚悟のことだ。
嘘をつかない、誤った情報を拡散しない、他人を貶めない。
当たり前のことを、当たり前に続けるだけでいい。
自由とは、放っておけば壊れるものだ。
だからこそ、言葉を選び、嘘に抵抗し、誠実に語る努力を続ける必要がある。
それが、自由を守るということだ。
そしてその積み重ねが、やがてデマを流しても得はない、正直でいる方が尊いという空気を育てる。
その空気こそが、民主主義を支える本当の力だと思う。
関連リンク
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