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徳島県知事選挙/劣化しゆく「阿波戦争」の行く末は 『Gの系譜(2)~歴史からひもとく注目の知事選~』(歴史家・評論家 八幡和郎)

2023/4/1

八幡 和郎

八幡 和郎

知られざる「Governor(知事)」たちの権力闘争の歴史を八幡和郎氏が徹底解説するシリーズ。2回目の今回のテーマは徳島県知事選挙です(文中は敬称略です)。 

中央政界にも影響を与えた「阿波戦争」とは

徳島政界で1970年代から80年代にかけて勃発した三木武夫(首相)と後藤田正晴(副首相)の「阿波戦争」は、岡山での「六龍戦争」(加藤六月と橋本龍太郎)、石川での「森奥戦争」(森喜朗と奥田敬和)などと並んで戦後地方政治史を彩る激しい争いだった。

発端は、田中角栄内閣の副官房長官(事務)だった警察官僚出身で田中角栄のもとで官房副長官をつとめた後藤田正晴の参議院選挙への立候補だった。徳島は、戦前から代議士を務め、「議会の子」と呼ばれた三木武夫の地元で、三木派の武市知事の選挙応援にまで現職総理だった田中が乗り込むほどの蜜月だったのに、田中は三木派の現職参議院議員である久次米健太郎を下ろして後藤田に公認を与えた。

これに三木は反発し、久次米19万6210票に対して後藤田は15万3388票に終わり、しかも、後藤田陣営は元警察庁長官にあるまじきことに268人もの選挙違反者を出した。この参議院選挙で自民党は全国的に不振で田中政権はここから求心力を失ったのだが、そのなかでも徳島の敗北はシンボリックなものだった。

「阿波戦争」での三木と後藤田の主導権争いが、県政にも持ち込まれたのである。抗争は深刻で、夜の社交場も両派に色分けされ、中立など許されないとすらいわれた。

だが、そのあと1976年の総選挙で徳島県全県区において後藤田は2位で当選し、ついで武市知事打倒になりふり構わず戦うことになったのである。

この阿波戦争だけが原因でなく、それ以前から徳島県政を巡っては政争が激しく、現在の飯泉知事で8代目だが、一度として前知事の流れにある候補がすんなりと継承できたためしがない。

第1回の知事公選選挙では、徳島市出身で徳島県立商業学校を出たのち労農運動に参加し独学で弁護士になった阿部五郎(1947年就任)が当選した。保守が乱立した上に、当時としては斬新なことに、具体的な公約を公報で掲げたのが受けた。

阿部五郎知事の副知事だった蔭山茂人を破った第2代の阿部邦一(1951年就任)は鴨島町(現吉野川市)出身で東京大学から内務官僚になった。ダム開発や関西と結ぶフェリー就航などあったが、財政難、議会との抗争、利権問題などで苦しみ、原菊太郎(1955年)に惨敗し再選されなかった。

原は現佐古一番町に生まれ盛岡高等農林学校を中退し、材木会社経営。徳島市長。三木武夫の応援や斬新な選挙手法が功を奏した。財政赤字の解消に手腕を発揮し、小鳴門橋の建設、新産業都市などを通じて工場誘致にも成功したが、三期目の途中で、用地買収事件を理由に任期途ばで辞任に追い込まれた。

突然の知事辞任だったので、三木武夫は代議士に初当選したばかりの武市恭信(1965年)を擁立した。京都大学を卒業後、満州に亘り、帰国して貞光町長となった。三木が中選挙区の票を分けて自派の代議士にしていた。

このころ、本四架橋問題が話題になった。河野一郎建設大臣は、香川・徳島合併で香川県にも吉野川の水を使わせる代わりに明石鳴門ルート優先という案をぶち上げた。しかし、河野が急死して振り出しに戻り、四国では架橋問題に精力を過度につぎ込みすぎ、ほかの事業も遅れる悪循環になった。そうしたなかで、武市のやや消極的な政治姿勢、三木の地元貢献の少なさが問題になってきた。

それが「阿波戦争」の原因で、後藤田は1977年には、三木申三を擁立し、武市は自民党公認も得られなかったが(当時は相乗りでなく自民党は公認を原則としていた)、「県民党の公認をもらった」として辛勝したが、4年後には「20年は長すぎる」をスローガンにした三木申三(1981年就任)の再挑戦に敗れた。このあたり県外の者にとっては、「後藤田派で反三木武夫である三木申三知事」だからややこしい。

三木は現吉野川市の生まれで徳島医大卒の病院長。明石大橋着工、徳島空港のジェット化など後藤田正晴を通じての中央へのパイプも活かしながら実績を上げ、企業誘致も進んだ。

しかし、仁義なき戦いへの疲れも目立ち、無色の候補をという声も高まり、7党相乗りで擁立されたのが、運輸官僚だった圓藤寿穂(1993年就任)だった。板野町出身で東京大学から運輸省。徳島空港乗り入れ便増加などを実現したが、三選目には吉野川第十堰を巡る対立で勝手連が擁立した社民党系の元県議の大田正が善戦した。

革新知事から大阪出身の官僚知事へ

翌年、圓藤は収賄事件で逮捕され辞任に追い込まれ、大田正(2002年就任)が知事となった。専売公社の工員から出発したおそらく全国で初めての現場労働者出身知事だった。

少数与党で副知事選任などもできず、環境問題などでの公約への過度のこだわりが手を縛った。徳島空港拡張工事を停止したものの、併設する産業廃棄物最終処分場建設に支障を来して撤回せざるをえなかった。「汚職調査団」構想も、人選が偏っていると批判され県議会で知事不信任が可決され、知事選挙となった。

保守系は総務省より部長として出向中の飯泉嘉門(2003年就任)を擁立し勝利した。大阪府出身で東京大学から自治省に入省。『オンリーワン徳島』を看板に安定した県政を進め圧倒的な強さで四選された。「二兎を限りなく追う」というように総花的ともいえるが、バランスのとれたきめ細かさが信条である。Jリーグの「徳島ヴォルティス」の支援は成功した施策とされる。

ただ、4期目の後半からは多選批判が出てきて、自民党でも多選批判が強くなり、2019年の知事選挙では、最終的には、飯泉が自民党県連、公明党県本部、連合徳島から推薦を受けたが、5期目を目指し立候補した岸本泰治(元県議)が後藤田正純衆院議員の支持を得て立候補した。

結果的には、飯泉が53%の得票で勝利したが、岸本泰治が41%と善戦し、共産党の天羽篤も6%を獲得した。

また、飯泉は2019年9月に全国知事会会長に就任し2021年9月まで務めたが、かなりの激務であり、これまでも、歴代会長のお膝元からは、知事の仕事が疎かになるという批判が出てきた。地元に不在の日も多いし、庁内にいてもアポを取りづらいという現象も起きるのは、飯泉に限ったことでない。

そうしたこともあって、自民党県議団などは、地元出身の官僚などのなかから後継者を探すことを試みたが、適任者が見つけられないままになった。

保守から現職と2人の国会議員が出馬

今回の知事選には、無所属新顔で前参院議員の三木亨(55)、共産党の新顔で党県書記長の古田元則(75)、無所属新顔で前衆院議員の後藤田正純(53)、無所属現職の飯泉嘉門(62)の計4人が立候補を届け出た。前回善戦した岸本も立候補しようとしたが、直前に断念した。 三木はかつて知事だった三木申三の長男、後藤田は後藤田正晴の甥である。

保守三分裂なのだが、三人とも経緯としては傷だらけだ。飯泉が多選批判を受けて、現在の任期の退職金を受け取らないことにして背水の陣を敷いたが、過度の給与や退職金の辞退を餌に選挙をするのは感心しない。

後藤田はここ数年の県政の混乱が、後藤田が市町村長選挙などで独自の行動をしすぎたのが原因とみられ、2016年の徳島市長選挙では、四国放送アナウンサーの遠藤彰良を推して当選させたものの、強引な姿勢が批判を浴び、2020年の選挙では、自民党徳島県連会長の山口俊一代議士や福山守代議士が支援する内藤佐和子に敗れ、前回の総選挙では自民党県連から非公認の申し入れが党本部にあった。

それでも現職優先を原則とする党本部は、後藤田を公認したが、小選挙区では敗北し比例で復活当選した。しかも、その議席を放棄し、香川県出身の候補者が繰り上げ当選するのだから批判を受けるのは当然だ。

三木は2007年に県議となり、2013年の参議院選挙で徳島選挙区から当選。2019年には徳島県選挙区が高知県選挙区と合区となったため、比例代表の特定枠の1位に三木が指名され当選していた。今回の立候補は任期を2年以上、残して議席を放棄し、北海道出身の候補者に議席を譲ることになった。

つまり、徳島は一気に4人の国会議員のうち2人を失ったことになり、かといって飯泉の出馬経緯もぱっとしたものでなく、「阿波戦争の再発というが、以前の戦争にはしっかりした地元の発展を願う政策論争が根底にあったが今回はそれもない」と古い自民党有力者は嘆く。

三木は、二階派に属していたので、会長の二階俊博・元幹事長らが全面支援するし、後藤田は石破派の解散に伴い茂木派に移っていたので、関係者はエールを送る。しかし、派閥としても所属議員を失うことを歓迎しているわけはない。

最大の論争が阿波踊り騒動の余波と音楽ホールという不思議

選挙戦は争点らしきことも浮き上がってこない。飯泉は総務官僚らしくまんべんなく政策展開をしてきたものの、総花的に過ぎてメリハリがなく、数字としての結果を示せてないし、宿泊観光客数全国最低など名誉な話でない。

かといって、ほかの候補者の政策もなんとも迫力ない。唯一の目立つ争点といえば、「県立ホール」問題である。徳島県には客席数1000人を超える音楽ホールが皆無である。そこで徳島市が計画していたが、政争に巻き込まれ頓挫し、これを飯泉知事が引き取って、県立で県は2000席規模の大ホールと約400席の小ホールを備えたホールにすることにし、工事も始まって、費用は216億円となり3年後に完成予定である。

これに対して、後藤田は「半額以下でできる。浮いた半額分は、スポーツ立県として、マイナースポーツから、いろんなものに使っていく。また病院の整備、道路、さまざまなものに有効活用してまいりたい」といい、三木は「中止してしまうと、違約金もかかりますし、何年も待たなければなりません。県民が望むよいホールにするために、建設を推進し、その上で予算や設計について検証すべき予算の問題、設計、耐震化が本当に充足できるのかという問題を十分に検証した上で、ホールを建設すべき」、飯泉は「新たな県土のランドマークとして整備をいたしてまいります。ただし改めて県民の皆様方に広く御意見をお伺いし、その後に詳細設計をまとめてまいります」とし、古田は「多くの県民が新ホールを待ち望んでおります。政争の具にするのではなく、216億円の経費を削減しながら、今の計画を進めるようにします」という。

徳島県政の特殊な状況としては、徳島市政にはさまざまな有力者がいてその影響の是非につき争いが絶えないとか、徳島新聞が全国の地方紙の中でも最大の市場占有率を盛っていて、県内普及率は約60%、シェア率だと86%で朝日新聞や日本経済新聞の4%と雲泥の差があるという事情もある。

ここ数年、阿波踊りの開催の方法を巡って、騒動があった。観光協会と徳島新聞社が主催者となって運営してきた阿波おどり事業の累積赤字は2016年度までに4億2400万円にまで膨らんだが、これを徳島市が保証してきた。

そこで、徳島市の遠藤彰良前市長(徳島新聞系列の四国放送アナウンサーで後藤田正純氏の支援を受けた)は観光協会を破産させ、従来の祭りの担い手であった関係者を排除し、市が主体となって作った新主催者団体「阿波おどり実行委員会」がクライマックスを分散する方向での開催を模索したが、長年、運営の中心になってきた人たちが、これをボイコットするなどの騒ぎになって、これが前市長が内藤新市長に交替する一因になった。

世論調査では後藤田先行だが、逆転もありえないわけでない

選挙情勢では、世論調査では後藤田が数パーセント程度リードし、飯泉がそれに続き、さらに数パーセントの差で三木ともいわれる。飯泉は過去の選挙に比べて老化した印象が目立つ。それに対して、後藤田は年齢も若いしもともとイケメンだが、さらに良いスタイリストがついているようだ。

立憲民主党などは、衆議院徳島一区で、後藤田に勝っただけの力があるのに、保守三分裂につけ込む気力もないのはあきれたもの。連合は飯泉支持であるが、後藤田は環境派などにアピールする言葉を発してそこそこ成功して評価されている。

後藤田と言えば、夫人が女優の水野真紀で選挙でも絶大な力を発揮したが、前回の総選挙では応援に入らなかった。今回の知事選でも登場していないが、土壇場になってサプライズで登場したら最強の武器になるかもしれない。

飯泉が逆転できるとすれば、三木との差がはっきりしてくると、自民や公明の票が飯泉に集約すること、堅実な実績を誇るだけでなく、全国知事会の経験も生かしてもう一歩、魅力的なビジョンを示すことだろう。

=つづく

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八幡 和郎

八幡 和郎

評論家、歴史家、徳島文理大学教授 滋賀県大津市出身。東京大学法学部を経て1975年通商産業省入省。入省後官費留学生としてフランス国立行政学院(ENA)留学。通産省大臣官房法令審査委員、通商政策局北西アジア課長、官房情報管理課長などを歴任し、1997年退官。2004年より徳島文理大学大学院教授。著書に『歴代総理の通信簿』(PHP文庫)『地方維新vs.土着権力 〈47都道府県〉政治地図』(文春新書)『吉田松陰名言集 思えば得るあり学べば為すあり』(宝島SUGOI文庫)など多数。

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