2026/1/22
今から27年前、私は伊豆半島で全くゼロから政治家としての活動を始めました。運と縁に恵まれて、これまで9回にわたって小選挙区で当選を重ね、政治家をやるからには少しでも国民の役に立ちたいと努力を重ねてきました。

「政治と縁のない育ちなのに、なぜ政治家を目指したのか」
これまで何度もこの質問を受けてきました。私の政治家としての原点は阪神淡路大震災です。
1995年1月17日、大学の卒業と就職が決まり、最後の青春とばかり遊ぶ予定をバッチリと立てていたところに阪神淡路大地震が起こりました。私は京都の下宿先のテレビ画面にくぎ付けになりました。関西人にとって、あの阪神高速道路が倒壊している姿は信じがたいものでした。

「これはただごとではない!」
神戸出身の友人に頼まれて被災地に入ったのは震災から3日目。電車が通っていたのは阪急電鉄の西宮北口までです。そこから、水のタンクを背負って二人で灘区の友人の自宅を目指しました。肩に食い込むリュックの痛みはすぐに吹っ飛びました。
ガレキが散乱する道路は救援物資を運ぶ車で大渋滞。荷物を背負って歩く人たちが列をなしていました。あちらこちらからガスや蒸気が立ち込め、家屋から荷物を運び出す人たちの姿をあちらこちらで目にしました。
「戦争の時はこんな状況だったんだろうな」
そんな言葉を交わした後、我々は30キロの道のりを無言で歩きました。
友人の家に水を届けた後、軽くなったリュックを背負い一人で西宮北口を目指す道すがら考えました。私は、前年に父が会社が辞めていたため学費を免除され、生活費はバイトで賄って大学に通っていました。
せっかく国に助けてもらって大学を卒業できたのに、真面目な学生生活とはほど遠い日々を送ってきた。社会に支えられて学生生活を全うできた自分が社会に恩返しするとすれば今ではないか。私の中でスイッチが入るのを感じていました。
縁とは不思議なものだと思います。京都に戻った次の日、それまで関わっていたNGOの責任者から神戸に入れないかとの打診がありました。卒業旅行などすべての予定をキャンセルして二ヶ月間、ボランティアとして神戸で過ごすことにしました。
二月に入ると、被災者支援には続々とボランティアが集まってきました。多くの社会人もいましたが、継続して活動できるメンバーが少なくコーディネーター役を任されることになりました。

神戸で政治家になる決意をする
震災は辛い経験でしたが、ボランティア活動を通じて日本社会の素晴らしさを感じることができました。
ものが圧倒的に不足する中で救援物資の列に整然と並ぶ被災者の姿には、心を打たれました。有事に略奪が起こらない国というのは珍しいと海外メディアから指摘を受けました。東日本大震災の時もそうでした。
コーディネーターの役割の一つは、次々と入ってくるボランティアに仕事を割り振ることです。救援物資の整理など地味な作業であっても、誰一人として不満を言う人はいませんでした。日本人一人一人の資質の素晴らしさを感じました。
被災地で日を追うごとに存在感を増していったのが自衛隊でした。若い人には信じがたいことかも知れませんが、当時、自衛隊という組織はあまり日の当たる存在ではありませんでした。
行方不明者の捜索、がれきの撤去に始まり、やがては被災者への風呂のサービスの提供など、被災者のために懸命に働く自衛官の姿は感動的でした。神戸市民が自衛官を見る目が変わっていくのも印象的でした。

対照的だったのは政治に対する評価です。
自衛隊の出動がもう少し早ければもっと助かった人がいたのではないかと悔やむ被災地の人たち、兵庫県と神戸市の役割のはざまで苦しむ自治体職員からは、苦しい心情を吐露されたこともありました。日本人の個人としての資質の高さ、自衛隊に見られる組織としての強さがあるのに、政治はそれを生かし切れていない。
助けを必要としている人のために働きたい。それまで漠然と政治の世界に対して持っていた思いが、神戸の経験を経てはっきりとした目標となりました。23歳の春のことです。妻と出会ったのもあの時の神戸でした。阪神淡路大震災は私の人生を決定づけました。
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